今振り返ると、カーブスと私は見えない糸でつながっていたのだと思う。出会うべくして出会ったのだ。カーブスの名前を初めて聞いたのは、退職した後に何かの集まりで元同僚と話した時だった。彼の奥さんがカーブスに楽しそうに通っているという話だった。その時は、カーブスに通うと健康に良いらしいという程度の認識だった。 それから時が流れ、今から8年前に背骨を折る大怪我をした。後向きに倒れて庭石に背中を思いきりぶつけてしまった。骨折というより背骨の一部が崩れたようになったのだ。病院では歩けるから入院できないとのことで、通院しながら骨が固まるのを待っていた。半年が過ぎて骨は固まったけれど背骨が曲がったために猫背になり、身長が5センチ近く縮んでしまった。それから2~3年が過ぎ自分のみっともない姿を悲しみながらも、半分は諦めの境地になっていた。 そんな時、ふと心に浮かんだのがカーブスだった。カーブスに行ったらこの曲った背中も多少なりとも改善されるのではないかと考えたのだ。しかし、すぐには行動に移せなかった。しばらくの後、行きつけの和菓子屋で、顔なじみの店員さんから、たまたまカーブスの話を聞いた。よく覚えていないが、私は背中の骨折のことを話したかも知れない。その店員さんは境町から玉村に通っていて、勤務が終わるとその足で境町のカーブスに寄るのだそうだ。7時の終了までの短い時間で、全部の器具を1回だけ周るとのこと。そして毎日通っているという話。以前は身体が重く腰の痛みに悩まされていたが、カーブスに通うようになってから、腰の痛みも取れとても元気になり、毎日が楽しいという話をしてくれた。その時私の心は動いた。これは最後のチャンスかも知れないと思い、行ってみようと決心した。 カーブスに通い始めてから、この4月で4年が過ぎようとしている。コーチの方々がとても優しく、親切に面倒を見て下さったから、続いたのだと思う。最初のうちは器具が上手く使えず、変な所に力が入って手や足の筋を痛めることもあったし、家に帰って30分程横にならないと動けないような状態でもあった。「今日は行きたくないなあ。」と思いながら、意を決して出かけて行くと、コーチが「頑張りましたね。」と声を掛けて下さって嬉しかった。「『迷ったら来る』ですよ。」という言葉にも、随分励まされた。通い続けるうちに徐々に効果が表われて、体脂肪が減少し筋肉が増えて行った。孫から「おばあちゃんの腕はブヨブヨだね。」と言われた二の腕も筋肉がついてすっきりした。  コロナが流行し始め緊急事態宣言が出された頃、スポーツジムでのクラスターの発生が報道されるようになった。そんな時、カーブスに通うことを家族から猛反対された。遠くに住む次男からも「やめた方がいいよ。」と電話があった。カーブスは密にならないように工夫して、消毒や換気も徹底しているから大丈夫と必死に説得したが、分かってくれそうもなかった。 コーチとも相談して、4月から2~3ヶ月休むことにした。後になって振り返ると最悪な日々であった。散歩や体操をして過ごせば筋肉量を落とさずに済むだろうと甘く考えていたが、とても無理だった。散歩を少しして体操をしたくらいで体力を維持できるものではなかった。散歩だけは続けていたが、体操は全くしなくなり元気もなくなって行った。家族も私の様子を見て、「カーブス、再開したら。」と言ってくれた。休業していたカーブスも6月には再開されるとのことだったので、6月の後半から通えるようになった。 3ヶ月程の空白は、体力を大きく後退させた。左腕の力が弱って、腕を鍛えるマシーンを持ち上げることができなかった。筋肉量も随分落ちてしまった。この経験は、私にとってカーブスがいかに必要であるかを強く認識させた。ある意味では貴重な体験であったとも言えるだろう。  カーブスの魅力は体力づくりだけではない。人との出会いも魅力のひとつである。何十年も会わなかったMさんに会えて感激した。Mさんは、昔母の実家の近くに住んでいて、4歳上だった。弟さん達とも交流があり、懐かしい人だった。どうも似ていると思って声を掛けたのだった。昔話で盛り上った。イギリスから玉村に移住したというAさんとの出会いも楽しいものだった。下手だけれど少しでも英語を話したくて、思いきって話しかけたら答えてくれた。ちょっとした会話を楽しみたいので、会えた時には英語で話しかけていた。彼女は日本語がとても上手だったけれど。 今やカーブスは私にとって大切な存在となった。この4年間で、体重と体脂肪が減り筋肉が増えた。そして曲がった背中も前よりも目立たなくなったようだ。最初の目的は果たせたから、あとは現状を維持できるように続けることが重要だと心に決めている。いつも「今日も頑張りましたね。」と声をかけて下さるコーチの方々に感謝しながら。