カーブスに出会って5年半。我ながらよく続いている。今年は丑年、わたし年女なんですと笑顔で筋トレに通っていたのに重大な異変が発生したのです。正月はコロナで帰省客もなく珍しくゆったりと過ごした、1月下旬のこと、もしかして風邪ひいたかな?と思いつつ平常通り、息子の弁当作り、ラジオ体操、小学生の登校時見守りなど、朝の日課を済ませてから、喉が少し痛いながら午前中カーブスに行きました。筋トレ終了後、コーチから「大丈夫ですか」との声かけに、冗談まじりに「大丈夫じゃないみたい、病院でみてもらいます」と答え午後には耳鼻科を受診した。先生は、ひどくなるようであれば明日も来て下さいと薬を処方されました。ところが帰宅後だんだん喉の痛みが強くなり、水分は取らなくちゃ、少しは食べなくちゃ、と口へ運ぶのですが食事どころか水を飲むのも難しくなってきました。早々に床についたものの眠れるはずもなく、救急車を......と思ったが痛みの他には症状がなかったので精一杯我慢し、すぐ近くに住む息子への連絡も断念しました。
 やがて夜が明け朝の日課は出来たが、さすがにウォーキングは止めた。その頃は100㏄の水も飲めない状態になっていた。病院が終わったらカーブスに寄る計画でプロテインも準備して出かけた。幾つかの検査のあと、先生は市内の病院に紹介状を書くから、このまま行って下さい、電話もしておきます。とおっしゃるので直行した。そこで対応してくださったのは女医さんだった。内視鏡、血液、レントゲン検査のあと、模型を出してきて病状説明があり、食道と気道の入口に付いている蓋が喉頭蓋と言うもので、これが炎症を起こして腫れあがっており、このままでは窒息して倒れてしまうか、あるいは気管切開になるとの事。病名は「急性喉頭蓋炎(コウトウガイエン)」と診断され、一週間の入院と命の危険を宣告された。しかし私は声も出るし息苦しさもないものだから内心、人間は、そうも簡単に死ねないはず、と疑った。だが胸の痛みも始まったし、白血球とCRPの数値が異常に高かったので体内に入ったウイルスを除去しようと体が戦っているのだと理解して医師の説得に応じた。とは言え荷物を取りに帰宅させてもらえないし駐車場までも行かせてもらえない。所持していたトートバッグひとつで緊急入院となり、すぐに24時間点滴開始。バッグの中に持っていた物はハブラシと下着1枚、あとは着の身着のまま、準備なしの予期せぬ事態に私も家族も戸惑った。
――――ベッドの上で、あの日の事を思い出した。去年7月の球磨川豪雨災害、線状降水帯による大雨が降り続き、急激に川の水かさが増し、沿岸の家々は、あっという間に水没、流失し国道も橋も鉄道も流されたのです。見たこともない惨事だった。屋根の上から助けを求め、ヘリコプターで救助されたり、釣り用ゴムボートで助けられたり、体ひとつで逃げ、3時間以上かけて林道を山越えして、やっと避難所に辿りついた人達。命からがら着の身着のままであった。自分には何ができるのか、何かしたいと思い、ありったけのタオルや未使用下着など思いつくまま袋に詰めて避難所を訪れた。実家は被害を免れたが、集落の人達がどうか無事でいてほしいと願いながら。
――――住む家も流され、今なお仮設住宅で不便な暮らしをしておられる方々を思えば、今日の私は何だって我慢できる。食事の時、箸をくださいと言えずハブラシの柄でおかゆをすすった日もあったけど入院2日目の夜、必要な荷物は届いた。ただ1週間もじっとしていると、体はどうなるのか、カーブスで学んできたので心配した。3日目になると点滴の間隔があき、自由に動ける時間ができた。まだ少し痛みは残っていたがベッド上でできる事を始めた。退院後、すぐ元の暮らしができるように、ストレッチ・5分間瞑想・プロテインも毎日飲んだ。早朝、同室の人たちが起きないうちに、そぉーと着替えて1階に下り、ラジオ体操と20分間ウォーキングもした。まだ玄関も締まっており誰もいなくて楽しい時間だった(これは秘密、バレたら注意されそう)。体は、どんどん回復し6日目の診察でもう大丈夫ですね、早く帰りたいんでしょう?と問われ「ハイ!」と答えた。午前中にタクシーで退院し、午後には日常に復帰してカーブスも始めた。これ程スムーズに病気が治ったのは、筋トレを続けてきたからではないだろうか。健康を意識して、運動の習慣や食事バランスなどカーブスを通して学習してきた諸々が、一日も早く元気にしてくれた気がする。続けていて本当によかった。私を支え、応援しつづける場であることを願う。ありがとうカーブス。お陰様で元気になりました。