私は10年前、この同じタイトル「母と私とカーブスと」で、初めてエッセイに応募しました。「75歳の母が膝関節の置換手術の後、カーブスを始めて、とても元気になり、そんな母を見ている私は本当に幸せです。」と書きました。
 
 そしてその3年後にも、この同じタイトルで、エッセイに応募しました。「母が悪性リンパ腫の病を克服して、また一緒にカーブスを続けられて、私は、とても幸せです。」と書きました。
 
 そして今回は、「母と私とカーブスと」の最終章を、カーブスの仲間やコーチへの感謝の気持ちをこめて、投稿する事にしました。
 
 その後の母と私は、朝一番でカーブスで運動し、そこから大好きなコーヒー(モーニングサービス付き)をお気に入りの店に飲みに行くのが日々のルーティーンになりました。時々は、カーブスの仲間たちとも一緒に行き、お喋りを楽しんでいました。私が午後から仕事に出掛けると、母は洗濯物を取り入れて畳んだり庭掃除をしたりして私を助けてくれていました。
 
 曾孫の保育園の送迎も、いつも私と一緒に曾孫と手を繋いで歩いて行き、帰宅後は子守りや食事の世話をしてくれました。思えば孫も曾孫も全員がおばあちゃん子でした。
 
 その間、心筋梗塞や腰椎圧迫骨折などで辛い思いをしましたが、その都度「カーブスに行きたい」と、不死鳥のごとく復活し、本人曰く「今が一番幸せ」な時を過ごしました。2021年1月に、悪性リンパ腫再発の診断を受けてからも、前向きに抗がん剤治療を受け、カーブスを続けていました。母があまりにも元気なので、周りの人たちは再発の事を知らない人が多かったと思います。いつも、「浪ちゃん見ると元気が貰える」と言ってくれる仲間がたくさんいました。私自身も、母の事だからまた治療が上手く行き元気になれると信じていました。紅葉旅行や花桃旅行に行き、大好きな温泉や料理を楽しみ、病気の事など忘れていました。
 
 しかし、2022年5月、再発後の治療で完治出来ていなかった腫瘍とその周辺が痛むようになり、カーブスを続ける事が難しくなりました。入院して痛みをコントロールしながら、最後の砦となる抗がん剤の投与により一旦痛みが解消し通院治療となりました。その時は、この治療が順調にいけば、またカーブスを再開できるのではないかと、母も私も希望をもちました。しかし、7月に入ると、治療中にもかかわらず痛みが再燃し再度入院となりました。ドクターからは、あと数週間の余命宣告を受けました。コロナ禍で面会も出来ず、「このまま別れの時を迎えたら絶対に後悔することになる」。
 
 その時、ドクターが提案してくださったのが放射線治療でした。「幸い医療用麻薬で痛みのコントロールが上手くいっているので、放射線をあてる事により少しでも腫瘍を縮小しがん細胞の勢力を抑える事が出来れば1~2か月は普通の生活が出来る可能性がある。その間、自宅で家族と一緒に過ごされたらどうですか?」と。
 
 私と妹は、自宅でも母は苦痛無く過ごす事ができるのだろうか?と心配しながらも、8月3日に母を自宅に連れて帰りました。在宅診療と訪問看護を受けながら、残された時間を有意義に過ごそうと決めました。在宅診療のドクターも、私たちの希望を受け止め、母に苦痛が無いように、細かな服薬コントロールを行ってくださり、その後の2か月くらいは、介護を必要とする事なく過ごせました。それどころか、朝はモップを片手に起きてきて床のモップ掛けをして、洗濯物を畳むのも自分の仕事として私を手伝ってくれました。「自分が役に立っている事に生きている価値がある」と母は思っていたからでしょう。そして、たまにはコーヒーを飲みに出かけました。カーブスの仲間がお見舞いに来てくれた時も楽しくお喋りをし、帰り際は庭先まで出て見送りました。ドクターに、カーブスの話をして、「今でも行きたい」と言っていました。私たち姉妹は、元気そうな母を見て、余命宣告は間違いだったのではないかと感じていました。
 
 しかし、10月に入った頃から母の容態が日を追って悪化し始めました。食事の量も極端に減りました。孫や曾孫も心配して、仕事や学校の帰りに毎日母を見舞う様になりました。それでも母は、私には「カーブス休まずに行って来てね」、孫や曾孫には「疲れているのに来てくれてありがとう。毎日来なくても良いよ。気を付けて帰ってね。」と、母らしい気遣いでした。私がカーブスを休み始めたのは、母が亡くなる2日前からでした。
 
 ドクターから、あと2~3日と言われて、私は仲の良かったカーブスの仲間に知らせました。10月19日、カーブスの仲間が運動を終えて母に会いに来てくれました。母は、話す事も目を開ける事も出来ませんでしたが、親友が手を握り話し掛けると、母の目からスーっと涙が零れ落ちました。そして、その3時間後に母は2人の娘に看取られながら安らかに84歳と10か月の人生を終えました。葬儀では、たくさんのカーブス仲間やコーチにも見送ってもらい、カーブスの名札,Tシャツ,靴と、傘寿の祝宴で孫たちからプレゼントされた「世界一の幸せ者」と書かれたタスキを掛けて、幸せそうな顔で旅立ちました。
 
 この様に晩年の母は、カーブスとその仲間に支えられて充実した日々を過ごせました。その事には、娘として本当に感謝しています。
 
 母はこれからもずっと持ち前の笑顔で私たちを見守っていてくれると思います。そして私は、「カーブス休んじゃだめだよ」と、母に背中を押されて、また今日も出かけて行きます。  (完)