私は国民学校1年生として戦争の最中に入学しました。場所は台湾台北市の中心です。父は台湾中のホテルに洋食材料を提供する輸入業者でした。当時はスパゲティさえも日本にはなくすべて輸入に頼っていたのです。使用人達に囲まれて穏やかな暮らしでした。戦いが悪化するにつれて男性は兵役に取られ、30才越えて体の弱い父にも召集が来ました。店は母が、ソースやコーヒーシロップなど工場は祖父が引き継いで経営に携わりました。
 母は私にピアノを習わせようとしましたが祖父が「父親が戦場で生死をかけて戦っているのに何事だ。」と反対して許してくれませんでした。やがて台北も空襲が激しくなり防空壕に入る日々がやってきました。私は壕の中でB29の爆音を聞きながら、「何故私は歴史上のこの時期に、地図上のこの地点に居なければならないのかしら。」と胸を刺される様な辛さを感じたものでした。
 小学2年生で学童疎開が始まり、面白そうだと思って加わりました。しかし田舎の小学校講堂での団体生活ですぐ病気になり祖父が迎えにきてくれました。祖父は田舎の山を買い、家を建て、小学校教師の女性を母代わりとして子供達三人を疎開させました。母と祖父は仕事で家を離れられなかったのです。月に一度位母が訪ねてくれるのが何より幸せでした。戦いは更に深刻となり、或る夜山上の私達の住まいからはるか台北の真赤に染まった空を見ました。台北大空襲です。朝、目を覚ますと、母と祖父が居ました。4才と5才の弟達は喜んではしゃいでいましたが、母の話に驚きました。台北市街地は壊滅的だと言うのです。二人は焔の中を逃れて来ました。
 終戦後帰宅してみると家は無事でしたが、工場のあった所は爆弾の穴で大きな池になっていました。日本政府の中心、総督府は周囲が1m置きの爆撃の穴で囲まれ、地下に避難した大勢の人が閉じ込められて亡くなったそうです。
 終年の翌年母は祖父と子供達を連れて日本に引揚げました。外地の私有財産はすべて戦争の賠償となりそのまま残して、母と祖父のリュックだけの荷物です。内地は砂糖がないと聞き、母は弟のゴムのキリンの中に砂糖をつめ込んでいました。食品工場なので砂糖は麻袋で天井までぎっしり重ねてありました。
 春3月、日本の田舎のなんと美しかった事でしょう。梅と桃に彩られた里山の春に心和まされました。やがて母の姉を頼って神戸に落着き私は小学5年生になっていました。翌年父が複員するまで、母は引揚げのリュックを使って神戸の靴を九州に運び駅頭で売りました。飛ぶ様に捌けてトンボ帰りで家に帰っていました。年老いた祖父と子供達で間借りの家を守りました。豊かな暮らしから無一文になった恐しさはありましたが、戦後皆が貧しくてそれ程苦痛ではありませんでした。父が帰ってから何か商売をという事になり、父が私に「何がいい?」と聞いた時、6年生の私の答は「お菓子屋さん。」でした。そして小さな食品雑貨店がスタートしました。パンのため朝6時に店を開けるのは私の役目、父は早朝から仕込みに出かけ、母は家事、学校に出かける私と交代です。小学1年の弟は駅まで自転車を届けて父を迎えてから学校に行きました。学校から帰ると私は夜10時まで店番です。これは高校まで続き勉強は夜中でした。
 私は幼い頃から外の遊びより自分の部屋で本を読む毎日でした。図書館の童話を読み漁り、戦争中は父母の本棚から、次々と取り出していました。例えばイプセンの「人形の家」はノラという猫のお話だ!という具合です。文を書くことが大好きで小説家になりたいと思っていました。しかし戦後無一文の経験から「自分の足で立って生きて行く」という考えが体に染みついていました。食べて行ける職業で小説を書く、医者だと思いました。そこで高校からは京大の医学部を目指してがんばりました。大好きな本や映画も絶ち、ひたすら受験に打込みました。高3まで親は黙認でしたが、秋に「6人兄弟の長女なので医大は無理、4年で出て欲しい。」と言われました。先生に太鼓判を押された京大もダメ。数十年後に学生運動の本拠地だったからと知らされました。結局潰しの利く英文科で女子大が許されました。やっと一日が自分の時間になったのでした。
 正しく歴史を伝えるための学生ガイドの資格を取り、修学旅行生のガイドをしていましたので、ボランティアで外国人女性のガイドをして英会話を鍛えました。新聞記者を望んでいました所、「ラジオ局のアナウンサー試験があるから受けてみないか?」と父から知らせがありました。4回生の夏、当時民放テレビがまだなかった昭和32年の事です。偶然受かってしまったので女子アナと学生の二本立ての生活になりました。日曜日を出勤日にしてもらって教職などの最終単位と卒論も書く事ができました。
 未知の放送の世界は刺激的で楽しいものでした。その後結婚し31才で子供が生まれました。当時華やかな世界で結婚、出産は大変なことです。使う人もなかったので産休は無給になっていました。産休の有給化、育児休暇取得など第一号として戦わなくてはなりませんでした。その他保育所を作る運動や、学童保育など、私達の年代は社会的に女性のためのレールを敷く役割を果たしたのですね。20年放送局勤務の後、主人が塾を始めたので退社、数学と英語の塾を経営し、50才からは高校の教壇に立ちました。電波では見えない不特定多数に呼びかけるのですが、目の前の生徒相手に学ぶ授業はまた格別の喜びがありました。こうして昼間は高校、夜は塾の生徒達、そして家族との充実した生活が40年以上続きました。現在は80才を期に長男宅に同居して6年余りになります。今年から夫の介護で塾を閉じました。
 幸い嫁は賢く素敵な女性なので本当に助かっています。有能な人なので会社も忙しく帰宅は毎日9時を過ぎます。留守中、孫3人との7人の家事は私の受持ちです。がんばる彼女の手助けができればと思って、掃除洗濯夕食、夫の介護で一日が過ぎます。唯一自分だけの時間、それがカーブスなのです。忙しかった一生の中で初めての自分への投資です。縄飛びも毬つきも出来ない運動オンチですがカーブスだけは楽しく通っています。脊柱管狭窄で50mも歩けない時、入会してすぐに痛みがなくなり薬も飲まなくなりました。心迫数が急に変った事に気づいたのもカーブスです。おかげで精密検査を受ける事が出来ました。恵まれた現在のライフスタイルが続きます様、優しく明るいコーチの励ましでカーブスは生涯楽しんで続けて参りたいと思っています。