「なぜ私はデイケアに通わなければならないの」そう尋ねてくる母は、今夏86歳を迎える。一昨年の冬に要介護1の認定を受け、昨年の秋に急激に認知症の症状が進んだ。
本人は「私を施設に入れてちょうだいよ」と要求してきたが「要介護1」で入れる施設はない。日々本来の人格を失っていく母は、トイレの失敗も増え、隠れて洗面所で下着を洗い洗面所を詰まらせるところまできていた。同居する実弟が「紙おむつ」の使用を促すも、すぐに脱ぎ捨てるという。私が母に紙おむつの使用をすすめ、自発的に紙おむつをつけるようになってからは、そういったストレスも軽減した。
お洒落をすることも忘れ、パジャマの上に洋服を羽織る、下着を着けずに外出しようとする。旅先で迷子になり捜索願を出すなど、上げたきりがないが「認知症ほどやっかいなものはないとはこういうことなのか」そう所感と同時に、表情が乏しくなり笑顔が失われた母の姿が目に焼き付き、眠れない夜が続いた。
ある日「カーブス」のトレーナーに「認知症が進んだ母、カーブスに通うのは難しいですかね」そう訪ねると「いえいえ、マシンを動かさなくても通うことで刺激になり、すこしずつ回復する可能性もありますから。あきらめないで一緒に頑張りましょう。サポートは私たちもしますから一緒に楽しみましょう」そう励まされ奇跡を信じることにした。
「カーブス」に一緒に通いながら母の社会復帰に向けて「デイケア」の通所先を探し始めた。幸いなことに、地元のクリニックの主治医から「ケアマネージャー」を紹介してもらうことが出来て、保健所の職員との面談、契約を交わし、一か月後にはリハビリテーション通所が始まった。最初は拒否反応を示していた母も徐々に慣れてくれた。
様々なことは同時に重なるもので、デイケアサービス受けることが決まりかける中で冷たい秋雨が降る日、胸の痛みを訴える母を救急搬送してもらい、検査をした結果「肺がんの影が見つかりました」と医師から告げられた。85歳という歳を考えれば不思議ではないと自分に言い聞かせ、帰りのタクシーの中で、眠る母の顔を見つめていた。悲しいという気持ちと「これからどうするべきか」という複雑な思いが交差した。
翌日搬送された同病院の呼吸器内科を母と訪れて受診した。担当医は昨夜のレントゲン、CTの画像をしばらくの間見つめながら口を開いた。「確かに肺がんの影はあります。しかし精密検査をしなければ断言はできません。高齢で体力のないお母さまに辛い精密検査、手術、ガン治療を施すことは過酷なことであると考えます。私がもし、自分の母親がガンの宣告を受けたなら、つらい手術、治療は望まないでしょう。いかがですか。貴方と弟さんは、そういったことを望みますか」そう質問を受けた時「望みません」そう答えた。「弟も同じ考えだと思います」医師は「ですよね。それよりもお母さんが残された余生をどう楽しく暮らせるかを考えてあげてください」そのあたたかな言葉が心にしみた。
認知症、肺がんの告知「デイケアサービス」の通所、自分自身の体のケア、いろいろなことが重なり、あっという間に年末を迎え、新年を迎えた。奇跡はおきた。トイレの失敗も減り、少しずつ軽い家事も自らこなせるようになった母は「カーブス」で仲間もできた。その「仲間」と「トレーナー」に正直に母が「肺がん」の告知を受けて、あとどのくらい生きられるかわからないことを伝えた。周囲の仲間は理解してくれて、母のサポートをしてくれる方も増えた。感謝の言葉の一言に尽きる。
ここまでの流れは、なんとなく綺麗ごとでまとまっているが、今ふたたび認知症の症状が進みかけており、私自身も時折同じ発言を繰り返し、一緒に暮らす弟を責め立てる母に時折苛立つことがある。施設に入れることが出来れば、と考えたりもする。浪費家の母の蓄えはゼロに等しく、施設に入所させる費用は弟もわたしもそういった財力はない。弟はこれから甥っ子を大学進学させる準備をしなければならないし、私自身が二年前に「腎不全」と診断された上、心臓の一部の石灰化も見つかり「透析」にならないように生活面全体を見直すことが重要な時期に入っていた。私が病で倒れればすべてが崩れてしまう。母や弟、自分の家族のためにも倒れている場合ではないと自分に言い聞かせた時、その無理が結果として共倒れになるリスクがあると気づいた。まずは、自分を大切にする。自分の時間を見つけ適度な息抜きをすることが、全てのバランスを保つことに繋がる。
肺がんの告知を受けた日の事を思い起こせば「高齢の母の余生を楽しく充実した毎日になるようにサポートするのが弟と私がすべきこと」と心の中では理解している。しかしながら、幾つになっても、半人前である私たちは、幼女にもどった母を時折疎ましく思ってしまうことがある。疎ましく思う自分自身をせめ反省しながら翌朝を迎える日も多々ある。なんとなくぼんやりしたトンネルの中をさまよっているような感覚である。そのトンネルを抜ける日はおそらく母との別れの日を迎えることなのだろう。寂しい反面「早く母が楽になる日が来ればいいのに」という気持ちが交差する。「自分はなんて冷淡な人間なのか」そう思う日が増えた。本当はもっと長生きしてほしい。もう一度一緒に笑える日を取り戻したいというのが正直な気持ちなのである。
そんな時「カーブス」の入り口が私と母にとって嫌な事を忘れさせてくれる場であることに改めて気がついた。カーブスでの仲間が増えた母。仲間から「Kさん、いつもお洒落な洋服を着ていいわね」、「Kさんの横にいると優しいからほっとするわ」と母を褒めてくれる皆さんには、頭が下がる思いでいっぱいになる。一人で「カーブス」へ足を運んだ時「今日はひとりなの。お母さんはお昼寝かな」、「Kさんは次はいつ一緒に来るの」そう声をかけてくれる人も増えた。母が「カーブス」の一員であることを認識してくれているうえ、葛藤する私の気持ちも察して言葉で支えてくれている。そう実感した。
介護、介助で疲れている人は大勢いる。疲れ果ててしまい残念な最期を迎えてしまった人も後をたたない。あたたかな言葉でサポートしてくれる仲間のほとんどが介護を経験した先輩方。「あなただけじゃなく、みんな乗り越えてきたから。葛藤して当然だし、完璧な人なんていない。介護、介助で疲れて『私はなんて孤独なのか』とか思わないでね」そう声をかけてもらった時「カーブス」に母と通うという時間はとても大切な時間、そう強く感じた。
去年まで元気だった母と「旅」をすることが楽しみだった事が懐かしく思える。冷静に考えれば、今まで普通と思っていたことは、実は普通なんて言葉や定義なんかなくて、自分自身、個々の個性を大事にすることが大切で、普通にできなくなったら考えることが出来るいきものなのだから別の方法を考えればいい。普通という言葉を捨ててみよう。自信喪失することがあったら母と「カーブス」へ行こう。「カーブス」は母と私の癒しの場であり、母の大切な社交場でもある。
何歳だから、この年齢で知り合いとか、仲間なんてできるはずがない。そう思い込んでいた母は「80過ぎても、話し相手になってくれるお友達は出来るのね。「カーブス」ってただ身体を動かす場所ではないのね。日常を忘れさせてくれる場所なのね」そう微笑んだ瞬間、笑顔が戻った母をこれからも葛藤することがあっても最後の日を迎える瞬間まで彼女が「カーブス」の会員であることをつづけようと心に固く決意した。
様々なことを、なんとか乗り越える中で昔のように「何故私だけが不幸なのか」、「いつになったら楽になれるのか」、などネガティブなことを思わなくなった。それは、身体を適度に鍛えることで、血の巡りがよくなることで前向きになれるからだと思う。母に笑顔を戻してくれた「カーブス」。そして「トレーナー」、「会員の皆さん」に感謝します。
入賞
「母に笑顔を戻してくれたカーブス」
カーブスって
どんな運動?