右足の静脈瘤とは長女の妊娠中からだから、かれこれ四十年以上の付き合いとなる。この間、静脈瘤炎となりシップを貼った事は何度もあり、時には血栓が出来、「脳や肺に飛んだら死ぬからね。」と娘と息子に宣言した事もあったが、静脈瘤を起因とする皮膚炎で歩けなくなる日は予想だにしなかった。うっ滞性皮膚炎なんて聞いた事もなく、そもそも皮膚炎なんて何時か引くもの、歩けなくなる程悪化し手術が必要となるとは夢にも思わなかった。
静脈瘤で血流が疎外され、足先に下りた血が上へと戻れず、滞留した血でふくらはぎがぱんぱんに膨れ、二倍の太さになり、遂に、足首は壊死した様に色が変り、凹んだ様に細く、少しでも触れれば激痛が走り歩けない。結局、心臓血管外科にて、カテーテルファイバーを血管に差し込み、静脈瘤のある血管を根元から一本レーザーで焼き止める焼灼術を受けた。結果一カ月経て足はみるみる細くなり嘘の様に歩けるようになった。
だが何か変。右足が左足より細くなる。痛む右足を庇って来たせいか。今度は左足腰が痛くなる。いや元々左足腰が悪かったのだ。その上右足が痛み歩けなくなっていたのだった。歩くたびに、左側が下がる、寝ていると左腰だったり、左足や左のお尻、左の背中だったりと、処所が定まらない痛みで目が覚めるか、痛みで起きあがれない。右足はもう痛くないのに、だ。
理由は思い当たる。この手術前後だけではなく、もう五カ月もカーブスにまともに行けていないからに違いなかった。始まりは昨年の10月、コロナに罹患した。今は五日で外出可となる。だが咳が抜けず二カ月完全にカーブスはお休みした。ゴロゴロ寝ていた訳ではないが、入院中の姑の分と自分の分。確定申告のための経理事務のため、ほぼ椅子に座っていた。それも悪かったのだろう。やっと咳が抜けた頃、今度はうっ滞性皮膚炎になった。
だがコロナ罹患後のため、手術はさらに一カ月待機となり、右足はどんどん悪化していった。手術後、痛みと腫れが引くまでに一カ月。確定申告が終るまで、カーブスには週三どころか月三回も行けないこの五カ月だったのだ。
何より、もう15年も、多い時で計4人の介護をして来て、(いや、まだ96才の認知症二人が入院と施設入居しており、まだ終っていないが)私の体はすでにボロボロだった。
15年前、泥酔した夫が嫌がる孫を無理矢理抱いてコンクリートの外階段から落下。幸い孫は脱臼した腕を吊るだけで入院しなかったが、夫は肋骨骨折で骨が肺に刺さりドレーンのため入院。それを聞いてさすがの姑もショックだったのだろう。脳梗塞で倒れ入院。私は腕を吊った孫を連れて夫の病院、姑の病院と回った日もあった。その後夫は退院。半年入院して退院した姑は、我が家に同居させ介護する事になった。脳の多くが白く死滅して認知にはなったが運動能力は一切問題なく、一人で歩いて行っては隣人の庭に入り、花をいや蕾を摘んで来てしまう。主人が追うが、追い付かない。テーブルの花瓶に差しても咲かない蕾に、「蕾は咲けないし、人の花を取ってはダメ」と怒ると、姑は「蕾は可愛いからヒネリたくなる」と言ってのけ、私は認知症の怖さを知った。元々行動は意地悪。言葉はイヤミの姑の介護は想像以上に大変だった。
そんな中、11年前、実家の父から「転んで寝込んでいるから来てほしい」と電話が来た。実家の母は35年前に脳卒中で亡くなり、その後父が再婚した継母は後妻業の女だった。継母もまた認知症で父はすでに8年介護していた。私は自宅の姑のディサービスの用意をし、五人分の料理を作り半分持って実家へ行った。ドアを開けるとテーブルに座った継母が、「じじい!私の飯はどうなってんだ!!」と怒鳴った。
前日から食べてない認知症だが余りの惨状に、私は実家の介護も始めた。稼動日を挟み三日づつやれば良いのではない。三日で一週間分、ディの荷物鞄三つと、五人分の料理を作り、器三段重ねを六組冷蔵庫に入れ、残りの鍋二つと大皿を持って実家へ。買い物と通院や市役所農協等の用事を済ませ、実家の三日で五人分一週間分を作り、半分を置き半分持って自宅へ。一週間で二軒分二週間分働いていた。
もうダメ、介護している方が先に死ぬ、と思った頃、主人と妹が癌になった。丁度姑も腸閉塞で、継母も転倒骨折で入院していた。絶対施設に入らないと言っていた父も、主人が入院手術する間だけと入所してもらうと、ここは極楽と気に入り居付いてくれた。幸い夫も妹も五年目には寛解。病院も卒業したのだが、自分は五年しか生きられないと思い込んだ夫は一日中酒に溺れアル中になっていた。
転べば一人で起き上がれない夫を部屋まで引き摺って行き、柱に掴まらせ夫と私二人の渾身の力で、セイノの掛け声で立ち上らせ、お尻の下に椅子を滑り込ませ座らせる。それが日に何度も。やっと座らせ背を向けたとたんもう後ろで椅子からドタッと落ちている事もあった。外出する時は車椅子。そんな夫の身体介護は二年。何も食べなくなった夫は二年前寝たきりとなり入院。間も無く亡くなった。
最後まで何とか私の足腰が持ち堪えられたのは、週に一度でも月三でもカーブスを続けて来たからだと感謝したものだった。姑一人の時も、実家と二軒分の二年間も、愚痴まで聞いてもらい身心供に支えてくれたのがカーブスだ。疲れた時こそカーブスに行くと帰りには元気になれ、次の日目線が高くなった。
だがコロナ以降全く行けず歩けなくなり、整形外科で左ヒザは人工関節レベル、背骨はスベり症と言われ、リハビリでは全身の可動域が無に等しいと言われた。「左足では階段を上れません」と訴えると「前足で上ろうとしない。後足がつま先立ちになる身体移動で上る。蹴る力も要らない。寝るとヒザの下に手が入る。これはヒザが曲っている。ヒザを入れて真っ直ぐに骨盤を立てて立つ、歩く時も腰から上。胸を張って前に出れば足は付いて行く。ヒザを入れて後足で蹴って、でも力は要らない、体の移動で立って歩く。足で力まかせに立ったり歩いたり、階段を上ろうとするから足腰を痛める。」と言われても、骨盤を立てて立つにはヒザを後ろへ押しやるように力を入れないと骨盤を真っ直ぐに立てないのだ。歩けば歩くたびに左側が沈み、左右同じようにスムーズに歩けないのだ。
これでは私は本当に歩けなくなる。その危機感から私は今やっとカーブスに週三で通い始めた。すると驚く事に、立つ時に、無理矢理ヒザを後ろに押す様に入れる事なく、自然とヒザが入り骨盤が正しい位置で立てていたのだ。力を入れずも当然と正しい姿勢で立てている。カーブスに行った次の日は目線が高く上がっていたのはこういう訳だったのか。カーブスのインストラクターさんにも「照美さん。最近頑張っているから姿勢が真っ直ぐ伸びて来ましたね。」と言われ「そう。この前まで縮んで丸まってたものね」と、カーブスのお陰で一人でに自然と正しい姿勢で立てるようになった事を伝えた。
一度歩けなくなったからこそ、身をもって筋肉が付き育つことの凄さと、サボればすぐに失なわれてしまう恐れを知った。もうサボれないし辞められない。
今、歩けるという事はこれからも歩けるという事。たとえ歩けなくなってもカーブスに行けば復活できた私だからこそ断言出来る、カーブスと共にずっと歩いて行ける、と。
佳作
「カーブスと共に歩いて行こう」
カーブスって
どんな運動?