95歳の義母を介護することになった。去年の六月、以前から足が不自由で家の中でも両手に杖をついていた義母は、足が腫れてきて歩けなくなったために入院した。初めは1か月くらい点滴すればよくなると言われたが、なかなか回復せず、寝たきり状態が2か月ほど続いて8月に足の腫れが治った頃には筋力が落ちて立てなくなっていた。そのため退院と同時にリハビリ施設に入所することになった。義母は努力家で、リハビリを頑張り、脳トレドリルで脳の活性化も図っていたが高齢なこともあって3か月たっても歩けるようにならなかった。このままでは家族に迷惑がかかるからと歩行を断念し、車いすで生活できるようにリハビリ施設でトレーニングをすること2か月、ついに自宅に帰って来ることになった。
 
 昨年大腿骨を折って、治ってからも自分が歩行するのがやっとの主人に代わり、義母の介護は私の仕事になった。
 友達から介護をすることになった家族がいかに大変かを聞いている息子は、パートで働きながら家計を支え、家事全般と村の奉仕作業当番などにも出席しなければならない私に「絶対無理。」「一生懸命やって完璧にうまくいって当り前、おばあちゃんが夜中にもし何かあったら俺らの責任になるんやぞ。毎日毎日夜中も世話できるのか?お母さんは理想論で生きてきて世間知らずやから。」と忠告してくれたが、24時間ヘルパーを頼んででもどうしても一度自宅に帰りたいという義母の願いを拒むことが出来ずに1か月という約束で義母は帰宅し、介護することになった。
 
 40年ほど前、義母が義父の母親を介護していた頃、義母は専業主婦で、介護保険や介護ヘルパーの制度もなく、本当に家族は大変だった。義母は「もし私が寝たきりになったらおとなしく寝てる。」と言っていた。家族に迷惑をかけたくないという気持ちはこの頃から芽生えていたのだろう。
 40年たった今、介護計画を立てるために、義母の介護に関わる人たちが10人ほど集まり会議をした。そして24時間介護の人に来てもらうのは物理的にも金銭的にも到底無理で、介護保険をうまく使い、デイサービスや訪問リハビリ、ヘルパー制度に助けてもらいながら介護する現実的な計画が決まった。電動介護ベッド、ポータブルトイレや12回分尿が吸収できるおむつなど介護用品も40年前には考えられないほど進化していた。
 
 車いすも進化していたがバリアフリーになっている介護施設と異なり、段差に畳、カーペットが敷かれている我が家では義母のできることは非常に少なくなってしまっていた。私より体重も身長も多い義母を車いすに乗せて自宅の中を移動させるには敷居や段差を超えるときに大きな力が必要だった。外出するのはかなり大変だった。介護タクシーを頼んで眼鏡を作りに行ったり、外食に連れて行ったり、衣類の買い物に連れて行ったり、タンスや押し入れの整理を手伝ったり。あれしてほしい。これしてほしい。決して現状に満足できずに愚痴を言ってしまう義母の癖。その上コロナの影響で病床が一部閉鎖され、1か月で施設に戻ることは不可能に。無期延期。
 
 こんなはずではなかった...。「だから俺が言ったやろ。おかあさんの見通しはいつも甘い。」ずっと協力的だった息子の一言。
 
 「そうだ。苦手なことを得意なことに代えよう。」「おばあちゃんを育てよう。」確かに介護は初めてで苦手なことばかり。けれど小学校に40年以上勤めていて子どもを育てるのは得意なはず。できないことが出来るようになり、分からなかったことが分かるようになった子どもの笑顔は最高だ。義母ができないことが出来るようになるように手伝おう。
 
 早速茶の間から棚やラックなど不必要なものを取り除き、カーペットも除いて、隣の義母の部屋から茶の間まで車いすで移動できるように練習してもらった。テレビのリモコンの操作も丁寧に伝え、練習してもらった。できないことをすぐしてあげるのではなく、できるように環境を整え、練習してできるようになったことを一緒に喜んだ。焦らずあきらめず。長い教員生活での子育ての鉄則。茶の間のテレビではオリンピックやワイド番組などいろいろな番組をしていて、義母と感動を共有できた。
 
 義母はできることが増えてきた。時々ポータブルトイレへの移動もできるようになった。くし、タオル、入れ歯、朝食、薬などまとめてこたつの上に運び、朝起きたら居間で義母のペースでデイサービスに行く準備が出来るようになった。カーブスで愛飲しているプロテインと友達に勧められた核酸サプリメントを毎朝一緒に飲んだ。食事はたんぱく質12点を意識して低カロリーで髙蛋白質なものを食べた。ふぐちり、焼き肉、すき焼き、うなぎ、握りずし、お好み焼き...。義母の好物を一緒に食べた。
 
 カーブスはほとんど休まず通い続けた。介護者が陥ると言われる腰痛とストレスによる免疫力低下を防止するためだと自分に言い聞かせた。短い時間に先輩や介護を経験した友達からアドバイスを聞くことはとても有益だった。香りのよい洗剤を使うこと、部屋に芳香剤をおくこと、おいしいものを食べること、便利な介護用品を利用すること等々。
 
 義母は帰宅当初一人ではベッドの上に起き上がったり、ベッドの下に降りたりすることもできなかったが、少しずつ筋力がついて、少し手伝えば、ベッドから起き上がって車いすに座れるようになった。一人で車いすからベッドに横になることもできるようになった。着替えやおむつの交換の介助も私が慣れたこともあり、かなり楽になった。二人で相談して介護タクシーを頼まずに私の車に車いすを積んで、病院やコロナの予防接種のために出かけることもできた。愚痴を聞くことはほとんどなくなった。
 ベッドに夜中に尿が漏れたり、排便の失敗でポータブルトイレの周りが悲惨な状態になったり、便秘になったから大便を掻き出してほしいと頼まれたり、衣類や寝具が汚れて一週間分ほどの洗濯を頼まれたり、ありがとうの一言も言えない主人に腹を立てたり、体力と気力全開でのぞんだ2か月だった。
 
 この2か月、介護の大変さを乗り越えられたのは、カーブスで培った体力とメンバーさんとのコミュニケーション、親せきや近所の人の温かい言葉やヘルパーの方のプロの仕事のおかげだった。カーブスマガジンに連載されている衛藤信之先生のアドバイスも心に響いた。「いつもの行動を少し変えるだけで人生は変わります。広い人間関係を持とう。」義母はタンスや押し入れの整理を終え、大好きな脳トレドリルと着替えを持ってリハビリ施設に戻ることになった。「ありがとう。お世話になりました。」義母からこの言葉を聞いた時、カーブスに通っていてよかったと心から思った。3か月後の義母の帰宅に備え、心と体を鍛えるために私は今日もカーブスに通う。