姉は八十六才、私は八十三才です。姉は五年程前から認知症が始まりました。姉は熱海の最高級のホームに一人で住んでいました。
 そのホームは景色が良く、空気がきれいで、お風呂は大浴場、温泉で、お食事も美味しく、百平米でベッドが二つありました。
 
 認知症の症状を遅らせる為、お話し相手に一諸に居て下さいとの事で遊びに行く事になり、別莊気分で昔話しに花を咲かせていました。戦争中母の実家の広島に疎開して、空襲の日に妹と私には靴をはかせたが姉ははだしで逃げ、足が痛かったと。
 東京に引き上げる時大阪までは貨物列車で、母はその年の七月に生まれた弟に乳を飲ませながら、その廻りに四人の子供を置き、トンネルの時はひきあげの兵隊さんが毛布をかぶせて下さったとか。
 
 終戦後カミシバイを見に行く時は、四人の下の子をつれて見ていたので、一度でいいから一人で見たかったとか。
 大変だったナーと思い、この姉には他にもたくさんお世話になりましたので恩返しがしたいと思いましたので、どんどん進行する病気と、元気に明るく楽しくをモットーに頑張りました。

 しかしコロナの中私は横浜からでクラスターにならないよう部屋から出ない様にと、その上熱海に土砂流があり交通が遮断され、デーサービスのスタッフの方々も足止めで、デーサービスが中止になりました。
 素敵な食堂も二人はお弁当にしていただき部屋でとの事になりました。
 認知症の介護は大変で、素人には無理で心身共に病んで来て、東村山の一人息子が私と交代で続けていましたが、「ちえこお叔母さんこの状態は無理です。施設を探します。」と云うことになり姉は施設へ入りました。

 介護が終り横浜の家に帰りドアの前で「これで熱海に行かなくて良いのだワ!!」と心に云って、ドアを開けて入ったら気絶。
 気がついたら、血圧が二百四十四もあり、病院通いが始まりました。
 
 そんな中でてんてこまいで落込んでいる時、スマホにカーブスからエッセイの賞品が届くお知らせを聞き、どんなに励まされた事でしょう。
 去年のエッセイの入賞との事です。本当にありがとうございました。

 でも私の体は転んでばかりで真っ直ぐ歩く事が出来ず、杖でやっと歩き日々を過して、病院に行くのと食事をやっと作る状態でした。
 ある日カーブスが4階で、一階のスーパーに買物に行き、足がエスカレータに上り、初めてカーブスに着きました。
 
 そこに、明るいスタッフの皆さんがおられ、お話ししている間に勇気づけられ明日から通う事になりました。
 マシンからマシンへの移動が大変で、私の右隣りを一つ明けて下さいました。マシンも、無理しない様にとお声がけ下さいまして、行ける時に行く方法です。
 この弱体に良かった事は足踏みです。まるで足踏みの為に通うくらい体に効き目がありました。スタッフの暖かいお言葉がけのおかげ様で、少しずつ歩くのが楽しくなり日々の暮しもなんとか一人でこなせる様になりました。
 
 姉は今ホスピスに居ります。元気にカーブスで鍛えてコロナが落ち着きましたら姉に会いに行きたいと思っています。
 こんなに衰弱していた私がコロナに感染せず居られますのは、一重にスタッフの皆様の暖かさのお陰様です。二月は十一回通えました。うれしい出来事の一つです。
 私の大好きなボードに持つ所があると全部出来ますので何か?良い方法はありませんか?
 
 一日も早くコロナが終ると良いとしみじみ神様にお祈りさせていただいて居る今日この頃です。
 たぶん熱海のスマホにお知らせがなければ、あのつかれと孤独の中救われなかったと思います。
 暖かさと自分が忘れられていない、という喜びはこんなに勇気が湧く物なのです。たくさん勉強させられ、熱海は辛い日々でしたが良い経験になり、これからの人生を豊かにすごしたいと、心からカーブスに感謝申し上げます。

 三月十七日
 83才のお誕日です。