「あんた、今日はカーブス行かんでいいだかん!」「だって今日は日曜日だよ」
 カーブスに通い始めて七年半が過ぎました。入会のキッカケとなったのは、9年程前に亡くなった父だったかもしれません。
 16年前、私は30年以上連れ添った夫と熟年離婚をしました。主婦のかたわら細々とパートを続けていましたが、夫に仕え、嫁ぎ先の親に従い・・の昔風の暮らしも、ある理由で難しい状態となり、二人の娘にも理解を得て、背中を押されるように家を出ました。何十年振りに戻った実家では、年老いた両親が二人で支え合いながら暮らしており、すでに介護の手も必要な状況となっていました。離婚はしたものの、心置きなく親の世話が出来る幸せをバネに、再びここからまた頑張ろうと気持ちを新たにする私でしたが、母は「長いこと頑張ってきたのに・・不憫で!」と涙ながらの言葉が頻繁に口を突いて出ました。そんな母に、今幸せであること!これからは恩返しのつもりで親孝行をするよ!・・と宣言し、すでにたびたび倒れて頭を打ったり、足元すらおぼつかない状態になっていた父を病院に連れて行くなど、第二のスタートは早速介護の日々となりました。
父を看つつ母を支える暮らしはこれっぽちも大変だとは思わず、充実すら感じたものです。そして、父92才の時「おまえ、これから大丈夫か・・」と問われ、ジェスチャー付きで、きっぱり「大丈夫だよ!」と応える私に「そうか。ありがとう。おまえはナイスだよ!」・・とお褒めの言葉をもらい父は旅立っていきました。そして一つのピリオドは打ちましたが、達成感などはなく、残された母からも亡くなる時に「幸せだったよ」・・の言葉が聞かれてこそ!との思いを強くし、その為にもこれから確実に老いていく自分の体を維持することこそ大事!と再確認しました。
そんな中浮かんだ「カーブス」の存在。友達の中には、開所と同時に入会した人もいましたが、父を送ったことで時間に少し余裕が出来、加えて日常の暮らしの中でも下降の一途にいる自分に、すでに出没するあちこちの不具合を目のあたりにするようになっていたからこそ、一歩を踏み出す場として、とりあえず試してみようと決めました。お試しスタートを切ったカーブスでしたが、いよいよ二人暮らしとなった母にも、病院通いがあり日々の気配りも欠かせません。そんな制約のある身でも、はばのあるワークアウト時間と、都合が悪ければ休む!・・その勝手の良さが続けられた要因だったのでしょう。無理はしない!・・が十分機能したのだから。
入会に当たっては、一つどうしても気になることもありました。それは私が難聴であること。このことは、カーブス入会に限ってではなく、これまで暮らしてきた70年の人生の中でも、どれ程ネックとなってきたことでしょう。幼い頃の病気が元での難聴で、片方の耳が聴こえないのです。耳は双方・・という構造上、ゆえに他人からみれば、片方があるからそんなに不便じゃないのでは・・ときっと思われているのが現実で、当人の、聴こえない!辛い!というレベルは決して正常の1/2ではないのです。子供の頃から、私は人と違うこのことを「恥ずかしい」とひたすら感じ、自分からは聴こえない!と伝えることをためらい、聞こえる振りをしてずい分長いこと過ごしてきました。その為、何度もそれが誤解を招き、人に不快な思いをさせたこともきっとあったに違いありません。そして、それを思う時、どんなにかみじめで悲しく辛かったことか。
学生時代の仲間は、私が実は耳が悪かった!などとは思ってもいなかったでしょう。ようやく限られた人のみに告白の意を決したのは、4、50代になった頃でしょうか。それでも、人を見て、タイミングも見て・・何とかやり過ごせそうならあえては・・とそんな具合でした。(打ち明けて先手を打たなければ困る状況に)・・という以外は、いまだに躊躇してしまう自分がいます。きっと言ってしまえば自分が思う程のこともないのでしょうが「ひけめ感」は否めず、年を経てもなかなか消え去らないのです。
カーブスに通い始めた時も、音楽がかかる中でのコーチの言葉がわずかしか聞こえず、時々声をかけてくれる人のひと言、ふた言も聞こえたり、聞こえなかったり・・。これが何より辛いのです。家に帰り、不可解な私の反応に?・・と思った方に心の中でお詫びしています。耳のことを除けば、コーチのいつも親切な笑顔での対応や、的確なアドバイスなどで、辞めよう!などと思ったことは一度もなく、パート勤めで腰を痛め腰痛持ちになってしまい、一、二度その症状に悩まされたこともありましたが、病院では「カーブスはOK」と言われ、控え目に運動することで安心してこの期を乗り越えることが出来ました。
カーブス入会前も、しきりに運動の必要性が叫ばれる風潮にもなっていたので、ウォーキングもしていましたが、筋肉は有酸素運動だけでは補えず、筋トレを止めた時点でアッという間に失なわれてしまうという現実を知りました。 
父亡き後は、母の中にも「慶子は毎日カーブスへ行く」・・という約束事が刷り込まれていたようで、出掛ける時間がいつもより少し遅いと「カーブス行かんだかん!」が口グセでした。そんな母も、いまだに続いているコロナの中、昨年96才で、病院でたった一人で旅立ってしまいました。入院中は一度も会えず、最後の「さよなら」も言えないままの、辛く悲しい別れとなりました。そして一人ぼっちとなった今、日課となったカーブスに出掛ける時は、心の中で母に「カーブス行ってくるよ」と声をかけ、午後からは自然の移ろいに元気をもらえるウォーキングで運動を実践中です。
先日、春を知らせるツクシを見つけ、忘れられない思い出が蘇ってきました。晩年の父は、いつもこの頃になると待ちかねたように自転車でツクシ取りに出掛け、いくつものスーパーの袋をパンパンにして、嬉しそうな顔で帰ってきたものです。そして早々に始まる父と母とのハカマ取りの協同作業。あのほほえましい光景は、今もまぶたに焼きついて離れません。父を送り母をも送り、今は肩の荷も降り、私も高齢者の一人としての歩みを続けています。
カーブスのカードも、いつの間にかゴールド色になり、そして私の太腿も「筋肉」というご褒美を与えられたようで、なかなかのものとなりました。「レッグエクステンション、レッグカール」のたびに「よしよし。カタイ!」・・と手で触わりつつ一人ほくそえんでいます。母のデイサービスのお仲間から「娘さん若く見えるねー」って言われたから「娘は毎日カーブスへ行ってるでねー」・・って言っておいたよ!・・と得意気によく報告してくれた母。両親共に「あの子は結構意志が強いから、一人でも心配いらんな!」・・ときっと思ってくれていると思います。これからはプラチナカードを目指し、日々大好きな絵手紙を描くことと、食と運動を常に意識した生活を送り、娘たちに「世話のかからないお母さんだったね」・・と言われる人生を送るつもりです。