もうすぐ母の命日だ。1年前の3月3日のひなまつりの日に一緒にカーブスに行き、その日の夕方には巻き寿司を作ってくれた母が3月5日の朝亡くなった。
 出勤前の私に父から「おばあちゃん冷たくなった」という電話を受け、私はまず父を心配した。このところ認知症の症状も見られ、母が気に掛けていた。「ついにおかしくなった?」
 
 とりあえず、救急車を呼んで急いで実家へ駆けつける。実家の前には救急車が到着していて、近所の方々が心配そうにしていた。玄関先には燃えるゴミがまとめてあり、炊飯器にはご飯が炊き上がっておりいつもと変わらない実家の光景。
 父母の寝室ではすでに救急隊員が蘇生措置をしており、介護職の私は絶望的な結末を悟ってしまう。そのまま救急車に乗りこみ病院へ搬送するもそのまま亡くなった。
 母への初めての介護が救急車の付き添いだった。
 
 90歳の母の心臓は年相応に弱っており、急性心不全としか言いようがないとのことだった。母は以前から「ぴんぴんころり」を理想としていたが「まさか!」と思える最期だった。
 納棺では私とお揃いのカーブスTシャツを入れ、斎場へ向かう途中、二人で通ったカーブスの前で信号待ち、開店前の列を作っている会員さんたちに見送られたような気持ちがした。
 
 葬儀にはお顔と下の名前しか知らないカーブスのお友達が焼香に来て下さり、コーチたちも実家に来て下さった。
 コーチから「現会員のまま亡くなるのは珍しい。きつゑさんあっぱれですね。」という言葉を頂いた。

 私と母がカーブスを始めたのは9年半前の秋。母が82歳、私が55歳、私が事務職から介護職を目指したことがきっかけだった。
 介護職講習に通っていた私は実習が始まると途端に自分の体力・筋力のなさを痛感することになる。誰もができることが私にはできない!
 そして実習での無理がたたって腰痛に!主人からもやめた方が良いと言われ、通っていた整骨院の先生からも介護職が務まる体ではないと言われたが、母は応援してくれた。私が介護の勉強をすれば将来心強いと背中を押してくれた。
 
 そんな時目にしたのが、実家の近くにあるカーブスの、腰痛予防体操のチラシ!母も誘って一緒に体験してみた。二人ともこれならできると思い即入会した。母も以前はスイミングや体操教室など参加していたが、歳とともに億劫になり何も運動していない状態だった。
 とりあえず、週2回を目標とし、一緒に行けるときは私が迎えに行き、時間が合わない時はそれぞれで行くことに決めた。どのていどの効果があるのかは未知数だったが、私の腰痛は何となく治まり2カ月後には介護施設への就職が決まった。
 
 非力な私が介護の仕事を無事に8年半も務められたのはカーブスのおかげとしか言いようがない。社交的な母はカーブスの人気者となり、たくさんの人たちに声を掛けられ、自分の歳を言っては驚かれるのが自慢だった。
 会員の皆さんとのおしゃべりが楽しみで、私が知らない間に私のことや家族のことを皆さんが知っていて、母をたしなめたこともあったが「たいしたもんだね、きつゑさんのようになりたいね。」と言われることが私の誇りでもあった。
 
 二人一緒にゴールド会員になった時は、「次は二人一緒にプラチナ会員を目指そうね!」と私が言うと「それは無理かも」と笑っていた。
 今年の秋には達成されるはずだったのに。
 
 いつも元気で明るい太陽のようだった母。母の日記にはカーブスに行った日のことがよく書かれてあった。皆さんに声を掛けてもらってうれしかったこと、久しぶりに会った人のことなど、カーブスでの母の姿が生き生きと思い出される。
 家のこと、父のこと、すべてきちんと整理して誰が見てもわかるようになっており、亡くなる前日には布団も干していた。全くあっぱれな最期である。
 
 母が亡くなったと同時に私は介護職を辞め、実家で父のマンツーマンの介護をしている。デイサービスや訪問リハビリなど利用しながらカーブスへ行く時間と大好きなサッカー観戦の時間を楽しみながら暮らしている。母からのバトンを受け取り父との生活を1日でも長く続けたいと思っている。
 そして、母との思い出がいっぱい詰まったカーブスもずっと続けていくつもりだ。