AKB48が好きだった。恋するフォーチュンクッキーも、365日の紙飛行機も上手に歌った、子供の柔らかな頭の中に、意味は解らないのに、歌詞はきちんと入っていた。紙飛行機を歌うのは、毎朝、私と、朝ドラを見たせいもあった。そして彼女は幼稚園へ行く。主人公のアサさんが好きなのだ。いや主題歌をすっかり覚えて、幼稚園から帰ってくると私の部屋にまっしぐら。目的があったのです。
 私が、どのくらい紙飛行機を折ってくれたか確かめたくて、額に汗にじませて走ってくる。
「ただいまでしょ!」っていうと、「ただいまです~」なんていいながら、目を走らせている。竹カゴの中に、いろんな色紙のヒコーキを見つけると、ワァッーと飛びつく
 2階の窓から、飛んで行け!飛んで行け!と、空に向って飛ばした。人生は紙飛行機願いのせて飛んで行くよと、わけもわからないのに歌った。いくつもいくつも、窓から飛ばすもんだから、すみませんすみませんといいつつ、ご近所の庭に入れてもらっては、紙の飛行機を拾ってまわるのはワタシ。せっせと折った飛行機を、行方かまわずに飛ばされて、それを拾い集める、バカか私は! なんて思ったりするが、なんだか結構楽しみにしている、ババばかの私が居た。

 やっと覚えたひらがな文字の、たった2行の手紙も、今日はいつ来るかと、待っている私がいた。「おばあちゃん おげんきですか またあしたね。ばいばいです。」と、毎日毎日同じ2行の手紙、その日も、汗のつぶを、鼻の頭に光らせて、2階から降りて来ると、ハイッおばあちゃんと手渡してくれた。アリガトねと受けとる。オサトウ頂戴!と言う、「どうぞ、どうぞ」というと、テーブルの上の、ガラスのフタのボンボン入れから、ピンクと、白のオサトウ、つまり、金平糖のことなのだ、二つとも口に入れてモグモグ。ママに叱られるから ブクブクはちゃんとしまーす、なんて、今日は、先に言われてしまった。
 そんな、そんな何んでも無い姿を、その日を最後に、5才になったばかりの幼子が、さくらの花の後を追った

 娘の下の子、上の姉とは、十五才も離れていたので、ワケもわからずだが、生意気に、なんでもすぐに覚える。姉の影響もあるが、小憎らしいほどのトンチンカン、そんな孫にふりまわされて、それでも、ありがとうとご免なさいは、ちゃんとしつけるのだと、一番下だからと、甘やかせないなんて、娘が言うものだから、そうだねェーだなんてみんなが納得。幼稚園の最上組に進んだ。「ワタシねおネエさんになったの!」と、新学期の幼稚園へ喜んで通った。きっと、幼稚園の先生に、下の園児たちを、かわいがるようにいわれたのだろう。なのに・・・・・・・あんなに意気揚揚としていたのに、あんなに明るく、元気のいい、まりのように、弾んで、可愛いかった5才になったばかりの命が消えた。

 名をみくという。晩春の夜の、未曽有の大事故であった。原因が、今でも判明しない火災が起きた。まったく何が何んだかどうしたのかも考えられず、泣きすがる娘をかかえ、娘が、悲鳴に近い声で、「お母さん、みくを助けて、助けて頂戴、お願い、お母さん!」と私の胸をこぶしでたたく。何度も何度も叩かれて、何度も何度も、家に入り込もうとして、私は消火隊員に引き止められ、焼け落ちていく我が家を、気が遠くなる目で追いながら、へたり込んでしまった。

 次の夕時、みくは、寝ていた2階から、下のキッチンに落ち、二度と笑わぬ姿でみつかった。見るに耐えられないだろうからと言われたが、娘は、「私だけには見せて!」と、解剖に送られる遺体にすがった。母なる故の娘は、一晩で、ゲッソリと、鬼気迫る程の変り様であった。それでも、目はつぶっていたし、お口は笑っているように、ポッと開いていたよと報告し、そして泣いた。お母さん、お母さんと、私の胸から、顔を上げることできずに泣いた。なんと悲しく、せつなく、なさけなく、私は、かける声を失った。
 みくのすぐ上の姉、18才になった孫は、2階の窓から飛び降り、カーポートを突き破って逃げたが、その際に、腰の骨が砕けた。
 又、一時同居の、娘の上の兄、私の息子だが、やはり、2階から、下へ飛び降りた際に、焼けて熱くなっているサッシを、それこそ通常では考えられぬ力で、素手で開け、その後は、1ヶ月近くも、集中治療室に入ったままで、皮膚は、移植手術が必要との話に、なんともいいようのない、途方に暮れるとはこのことだと、身の置きどころのない現実に、私は成す術を失った。その後の調査でも、家災の原因は分らず、どうにか、コルセットをつければ、歩けるようになった孫を入れ、ささやかな、みくの、お別れ会を行った。幼稚園のお仲間のチビちゃん達が、母親に手を引かれ、みくに花を手向けてくれた。どうしてみくちゃん居ないのと聞く子に、母親が説明できずに泣いてくれた。娘が布のかかって見ることのできぬ、みくの顔を、何度も何度もさすった。私はただただ、ご免ねをくり返すのみであった。その後、私達は、別々の暮しが始まった。移植をと心配した息子は、やはり若さであろうか、かつてはラガーマンだけの体力もあったのだろう、現代の医学の御陰もあって、移植は免れた。ただ、焼けただれたあとの治療、リハビリのもの淒さ、痛々しい姿も、日数を追って良い方へ向いている。
 娘は2人の子と、息子は、リハビリに通う為のアパートを借り、私は一人で公団の住宅に入居できた。ただ、10階建の8階での生活が、この時から始まったのだった。何一つ、持ち出すことができず、気がつけば その夜焼け落ちる家から出た際、しっかりと手に握っていたのが、唯一の携帯電話だった。

 沢山の皆様に助けていただいた。その後の日々、何一つ無い、水が飲みたい! お金がない。キャッシュカードも何も無い! 警察署、消防署、市役所とその頃は、だいぶ暑くなっていたが、町の中を、自転車で走りに走った、1ヶ月が過ぎ2ヶ月が過ぎていった。
 気がつけば ゲッソリと筋力が萎えていた。
 自転車で走っているのに、なんとも宙に浮いているような力のなさ、体重も減り、肌の色どころではない、口びるの色さえくすんでいる。友が見かねて、口紅を買ってくれた。化粧水をたたく、気持いいネ。あれ以来、娘は、楽しかった事だけ思い出して、もう泣かないと誓って、元気に働いている、さて私。

 休んでいたカーブスへ、4ヶ月ぶりに復帰した。コーチも友もやさしかった。やっぱりカーブスはいいねエ、お帰りなさいと迎えられた。体力、筋力の落ちた私。どうにかしようと考えた。運がいいか悪いのか 8階迄をエレベーターに乗らず、なるべくなら階段を上下した。130段を往復3、4回、だんだん自信、筋力が戻って、カーブスでの計測時、体力は20代に戻っていた。カードもプラチナになりました。もう、まるで、毎日のごはんだったんですねカーブスは。くどくどと書いた悲しい出来事も、私にとってのカーブスは、最大の癒しであったと思っています。