ワークアウトを終えていつも通りストレッチを開始した。背中を伸ばすためフロアーに寝転んだ時、近くでショルダープレスを動かすメンバーさんの息遣いが聞こえてきた。
「シュシュシュ、シュシュシュ」
繰り返される息遣いは規則正しく、力強い。体を起こして、その方のお顔を何気なく拝見したが、表情はいたって穏やかだ。「待てよ。」と耳を澄まし、マシンを観察して気がついた。これはメンバーさんの息遣いではなく、マシンから漏れる音だった。ピストンで圧縮された空気が、シリンダーから勢いよく吹き出る音だった。メンバーさんとマシンが一体化して、まるで本人が呼吸しているかのよう。体の動きに呼応したマシンは、あるときはゆっくりと、またある時は激しく呼吸する。これこそ油圧式マシンの真骨頂だ。「マシンは私達と一緒に呼吸している。」改めて気付いた私は、いたく感激し、感慨深かった。
私が通う「ヤマト橿原」は、11月には10周年を迎える県内の魁クラブだ。店内は3月22日にリニューアルされた。8月にはマシンも入れ替わり、第2世代マシンが登場する。
「ヤマト橿原」は、カーブス第2ステージに向かって確実に進み出している。
町内会知人の紹介でオープン1年後に入会した私も、カーブス歴9年を迎えプラチナカード会員まで後少し。まことにめでたくありがたい。この9年間を振り返えると、様々な思いが駆け巡る。私も又カーブスと共に、退職後の第2ステージに踏み出している。
カーブス継続第1の理由は、すぐ近くにあるから。なんと自宅から北進して徒歩140歩。
この上ない幸運だ。電車で片道1時間超えの遠距離通勤の頃も、ぎりぎり18時30分に入店できた。
乳癌手術(胸筋温存右乳房切除、リンパ節郭清なし)」、術後の抗がん剤治療、分子標的治療で病気休暇中だった2009年も、カーブスは休会せず、リハビリも兼ねてワークアウトを続けた。「不調になれば、即帰宅」との安心感があったからだ。
途中2回転籍した。治療から半年経った頃、札幌で一人暮らしの実母が咽頭癌で入院。介護休暇で実家にもどった私は、母を見舞いながら入院先で自分の治療も続けた。
大都会札幌でも、カーブスは近くにあった。最初は入院先近くの「札幌南郷通」に。やがて私の願いに応えるかのように実家近くに「札幌円山」がオープンし、再転籍した。これまた幸運だった。母は10か月の闘病の後、2010年6月6日安らかに永眠した。納骨を済ませ私はヤマト橿原に戻った。
大阪での34年間の勤めを終え退職したのは、東日本に未曾有の大災害と原発事故が発生した2011年だった。私自身にも想定外の様々な事態が起きた。「人生は思い通りにいかない。」と呟いてはみるが、疲弊感深く不調が続いた。ホルモン治療も継続中で、再発や転移の不安もあった。
今までの生き方を否定的に受け止め、後悔ばかりしていた時期があった。心身の不安から、バス電車すら利用できず遠出不可の時期もあった。「社会生活の居場所」を見失った私は、自宅にお篭りし薬を飲んでは、部屋のカーテンを閉めたままベッドに横たわり、ひたすら天井を見つめるばかり。これが、「ホルモンうつ」「退職うつ」「空の巣うつ」なのか?
ある日、カーテンの隙間から差し込む陽の光と共に声がした。「あなたの傍に家族とカーブスがいるよ。カーブスは、140歩に御座候ふ。」カーブス天使が囁いたのだろうか?見守る母が囁いたのだろうか?
こんな状態の私を救ってくれたのはカーブスコミュニティーの緩やかで優しい繋がりだった。カーブス継続第2の理由がここにある。
乱れ髪、ノーメークで伏し目がちにマシンを動かす時も、見守ってくれるコーチやメンバーさんがいた。好調な時は、挨拶や会話を楽しみながらのワークアウト。多くの懐かしい知人にもこの場所で再会できた。新たなメンバーさんにも出会え、有意義な時間を過せた。
クラブ創立5周年の素晴らしい記念パーティーに参加したのは2012年秋だった。カーブスで元気になった方々がその体験を舞台で語られた。その雰囲気に誘われて、私も長く秘めていた「手術と治療、母の看病」を初めて人前で語った。その話をもとに母への供養の為に綴った文章を、オーナーやコーチの勧めで2013年エッセイ大賞に応募したのだが、思いがけない準賞受賞。マガジンを読んで励ましのお声を掛けて下さるメンバーさん、「私も実家の親を看取ったの。」「私も乳癌手術を受けたの。」と、そっと語って下さるメンバーさんがいた。カーブスは、退職後の大切な居場所の一つになっていた。
これを契機に私は、2014年乳癌患者会に入会し、「語りと学びと交流の場」を得た。会のモットー「再び誇り高く、美しく」が胸に響いた。早期発見、早期治療の啓発活動にも参加し、新しい仲間にも出会えて、居場所が又一つ増えた。
2014年7月、乳癌サブタイプ「ルミナルB、HER2(ハーツー)陽性」の標準治療は終了。ひとまず寛解し、以後年1回の定期検診となった。「5年生存率」は乗り越えられたのだ。
地域を中心に生活する力と自信が少しずつ湧いてきた。気づけば、今や「近安楽嬉」(近い場所で、お安い価格で、楽しく嬉しく)の運動三昧だ。カーブスを中心に、ある日はヨガへ、ある日は健康スポーツクラブへ、ある日はノルディックウォーキングへと出掛ける日々。気づけば、町内趣味の会に参加して、町内会役員にまでなっている。気づけば、新幹線、飛行機に苦もなく乗っている。
カーブス継続最大の理由は、何といっても体と心の状態に合わせて一緒に呼吸してくれる偉大な12台のマシンの存在だ。
まだ傷跡の痛みが残っていた頃、マシンを動かした日々を鮮明に思い出す。恐る恐るワークアウトしたあの時も、体と心の状態を察知したマシンが応えてくれた。「あなたのペースでいいよ。」と言っているかのように、チェストバック、ショルダープレス、ペックデックが動いてくれた時、嬉しくてグリップ握ったまま涙した。立場は違え、あの頃の私と似たような気持ちでグリップを握っているメンバーさんが全国にいらっしゃると思う。
第一世代のマシンと2400回近く動きを共にして、一緒に呼吸してきた。10年間の役割を終えるマシンの労をねぎらい感謝して、私の好調な時も不調な時も新たな第2世代マシンと共に、これからのカーブスストーリーを作っていきたい。
最後に、私の秘かな願いをお伝えしたい。「ヤマト橿原」は、奈良県と和歌山県を結ぶ主要幹線路に位置する県南部の中心クラブだ。車で通われるメンバーさんも多く、1時間に1、2本の路線バスで通われるメンバーさんもいて、その人気の高さは町内でも評判だ。しかし、メンバーさんの中には、遠方ゆえ中途退会される方もいると聞く。
私はここ橿原の地から秘かに、2015年9月オープンの「カーブス大山町健康センター」に応援のエールを送っている。人口減少の進む自治体とカーブスの協力で誕生したこのセンターが、「地方のカーブス」成功モデルとして全国へ広がる事を期待する町長の願いは、私達メンバーの願いでもある。いつか、奈良県内の人口減少が進む町村にも「地方のカーブス」が誕生する日を密かに念願している。
生活圏内にカーブスがあれば、私達女性は必ず心身の健康を回復、維持できる。
「体が変われば心が変わる。心が変われば人生が変わる。」
この命題を、「ありがたき140歩」の私は、何よりも実感している。