カーブスエッセイ大賞2020入賞作品のご紹介

作品詳細

入賞

「カーブスで蘇った私」

美由紀様(60歳) カーブス中津沖代(カーブス歴:3年2ヵ月)

 カーブスに入会して、四年になる私には、続ける理由がありました。
 八年前、実家の父の肝臓ガン告知、余命半年と言われた時は、両親共に認知症初期でしたので、残される母が寂しくない様に思い出作りの為、ドライブや旅先での写真撮りしながらの、介護と仕事の日々が始まりました。
 両親には、楽しい時間だったのか、余命半年ではなく、一年長く過ごせ、苦しむ事なく最後を迎えました。
 思い出の写真は、母の認知症が進み、父の顔さえ忘れていました。唯一、世話をしている私の事は覚えていて、名前も呼んでくれていたので、世話をする事に抵抗はなかったのですが、仕事を掛け持ちしていた私には、無理があり、施設に預ける事にしました。
 しかし、意志の固い母は、思い付くと即行動を起こす人だったので、突然タクシーを呼び、家に帰ろうとしたり、部屋に閉じこもり食堂へ行く事を拒否したりするので、施設に居り辛くなっていました。
 そんな最中、義弟から連絡あり、妹が倒れ救急車で搬送されたと聞かされました。くも膜下出血で、意識がないと言われ、目の前が真っ暗になりました。
 正月三が日だったからか、予定していた手術が、当日になって出来ないという絶望的な出来事に深いショックを受け、言葉を失ってしまいました。
 仕事と、母の面会と、妹の見舞いの連日に疲れ果てていました。
 数日後、息を引きとったのは、父が亡くなって、三ヶ月後の同じ日でした。
 それからの私は、毎日が苦しくて、心も体もボロボロになり、色々出来なくなっていきました。残された妹家族は、どうなるのか、様々な不安が、大きく膨らみ、仕事にも支障きたしていました。
 一つは、社員食堂での調理です。主婦の延長での料理だったので、献立には分量を書いていましたし、味付けの仕上げは、担当者の判断で任されていましたので、無意識でも体で覚えていて、勘でしていました。四人で百三十人分の料理を作っていたので、時間との戦いでした。自信がなくなり、手順がおぼつかなくて、何度も尋ねたり、不安を訴える日々に傷付き、仕事に行きたくない、一人で出来ない(朝食のみ、担当一人の上、早朝出勤)と、気病む事が続いた為、主人が見かねて、職場上司に連絡してくれ、退職が決まりました。家で過ごす時間が増えたのに、心も体も休まる事はなく、私は、何をしていたのだろう、あくせく働き、妹と会う時間も割いて、亡くなってからの後悔は、日々、自分を苦しめていきました。
 こんな時でも、もう一つのヘルパーの仕事は、午後からの数件だったのと、生活の為もあり、辞められないまま、続けていました。
 しかし、長年の経験もあり、大変な内容のケアだったり、責任の重いケアが多く、それも負担になっていき、ケアに対しても自信をなくしていきました。まわりは、いつも通りに出来ていると、理解できなかったようです。
 そんな私の様子が、おかしいと気付いた親友が、遠方から、仕事を休み、私を病院へと連れて行ってくれました。「悪いなら、治療した方が良い」と言ってくれました。
 なのに私は、行かないとわがままを並べ、仕方なく病院へ行くと、うつ病と診断されましたが、人事の様に聞いていました。なので毎日の服薬も、通院も出来ませんでした。
 うつ病と診断された私は、ケアが続けられないと施設長に相談し、ヘルパーを辞めて、一日中、家での生活に変わりました。 ホッとしたと同時に、何も出来ない自分になっていました。思考力、判断力、実行力なく、脱力感に続き、生きている価値も見出せず、夜も眠れず、考える事は、マイナスな事ばかり、妹と過ごす時間をつくれなかった後悔に、心を痛めていました。
 忙しく働いていた日々から、解放されたのに、全く楽になれず、自分が居る事さえ、家族には、迷惑じゃないかと考えてしまい、役に立てない自分を責めていました。
 洗濯だけは、機械がするので、干すだけはしていました。料理は、長年、仕事でしていても、何を作ったら良いのか、材料は、分量は、手順は、どうしたら良いのか、流しの前に立っているだけの私になっていました。なので、主人が、仕事帰りにスーパーに寄り、同じ惣菜を毎日買って来るのです。元々食欲の落ちていた私は、全く食べれなくなり、それでも空腹を感じる事はなく、ただ寝て起きるだけの生活だったので、体重は、三十八キロまで落ちてしまい、恐怖さえ覚えました。
 半年後、また親友が、心配し、仕事を休み私を病院へ連れて行きましたが、担当医の態度が、事務的で、冷たく感じて信用できませんでした。結果は、同じで服薬できず、通院できず、一年が過ぎる頃、主人から、「長い間、友達に甘え、何もしなくて悪かったな」と言われました。
 その時の事は、記憶が、飛び飛びで覚えていないのですが、主人は、一大決心で、まずは、私が、信頼し治療を続けられる病院を探す事をし、通院が始まりました。
 もう一つは、環境を変える為に、引っ越す事にし、中津へ移り住みました。
 私は、家族や親友の心配に応えたくて、服薬と通院を続けました。
 その頃は、取り敢えず、しっかり食べて、体力を付ける事に努めました。
 しかし、米をテンポ良く研げず、自分で爪が切れない事に気づきました。筋力が落ちていたのです。このままでは、何も出来なくなり、老いていくのかと怖くなりました。
 娘に相談し、プールという案もありましたが、脱ぎ着が、苦になり、気が進まず却下。
 美容師の娘は、お客さんから、カーブスを知り、女性だけで、誰でも出来る運動だと聞き、まず体験をし、やるしかないと入会。週一回からのスタートでした。下を向いたままの私に名前で声かけしてくれたコーチ、そして様子が、おかしいと気付き、声をかけてくれた仲間が居て、段々に頭が上がり、声かけに返事が出来るようになり、自分から挨拶が出来るまでに変わっていきました。
 場所も、美容室の近くでしたので、万が一私が、倒れても駆けつけられるからと、娘が言ってくれたので、安心して通えました。
 気が付くと、普通に米を研ぎ、自分で爪切りも出来るようになっていました。
 やっと回復に向かっている喜びから、運転できなかった車に乗り、買物へ出掛けていました。体力が付くと、欲が出て、パソコン教室に通ったり、カーブスで友達付き合いも出来るようになり、楽しくなっていました。
 主人も、「元気になれた所だから、続けて通いなよ」と言い、喜んでくれています。
 元気になり、太り過ぎましたが、「あれだけ悪かったのだから大丈夫、筋力付けて引き締めましょう」とコーチから、慰さめていただいています。会話も楽しく、笑う事も増えたからだと思います。暗かった私に声かけしてくれた事、友達になってくれた事、そんな仲間に支えられて、今の幸せな日々があります。カーブスと共に、今の私が居ます。すべての出逢いに、ご縁に感謝したいです。

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