高い枝に、沢山の白い花をつけた辛夷(こぶし)、それを追うように、桜のうすもも色も、ポツポツ咲き出したのに、今年の春の、なんと淋しいことでしょう。期せずして起きた、世界的いや、国難という程の、新型コロナウィルスの感染、その感染症予防の為、学校は休校になり、外ではもちろん、人との接触の場所での予防、脅威的な恐しさは日に日に増すばかり、未知のウィルスのワクチンがないという。感染拡大を防ぐに、一斉休校やイベントの自粛、必要限りの外出もいいわたされた。
マスクはもちろん、消毒薬も不足、そのうえ医療機関では軽い風邪程度だと診察もしてもらえないとの話も蔓延した。
知らずして感染、高熱から肺炎を発症、死亡した人達の話が世界中で起り、これは、歴史的緊急事態であると、日頃元気にまかせて過している私が、身震いするほどの恐さであった。ゴシゴシとセッケンで洗った後にアルコールで、何度も消毒するものだから、鼻を近づけると、酔ってしまうくらい、アルコールが飛ばないねと、友と笑った。町の中も、異様であった。子供も大人も背中の小さな赤ちゃんに迄、マスクが着けられ、スーパーのフロントや、いつもなら賑わっているコーナーでも、人がまばらであった。買物も、そそくさと済ませて、逃げるように家に戻る。だから、公園のきれいな花の下で、いつもの明るい子供達の声が、ここ数日はまったく聞くことができない。もっと悲しいことは、感染してしまった人達を、まるで、罪を犯しでもした様に、見てしまうことだった。
当人が、いちばん、悲しく辛く恐ろしい思いをしているのにこういった現象まで起きてしまう。こんな毎日が続くなか、カーブスの教室も、数日の休会を余儀無くされた。
ほんとうに久しぶりに、以前、カーブスの会員だった友を訪ねた。同級生であり、学生の時はどちらも、運動部に入って、それなりに活躍した。私は走ってばかりいたという印象だと友が言うが、私が知っている友は、溌刺と、スラリと足のきれいな身体で、平均台の上で舞っていた。その上、この彼女の姉であるSさんが、学校きっての、ソフトボールのエースであった。ぐるっと、腕を大きくまわして投げる玉は、キャッチャーのミットに、バシッと決る。カッコよくて素敵で、誰もが慕った。御多分に漏れず、私にとっても、憧れの人であった。年が過ぎそれぞれの道を進んだ私達だったが、彼女Kちゃんは、私と同じ、この町で結婚し、子供を育てた。ほんとうに、偶然、それも、子供の通う学校での集会での再会であった。おたがいに自営業の人へ嫁いでいたので、その上、義父母も居たし、忙しく、当時は、お茶でもなんてことは、思ってもできなかった。時代は移り、子供達も卒業、学校も違ったり、結婚したり、両親を見送ったりと、私達が二度目に出会ったのは、六十才を過ぎてからであった。
その時の彼女、まったく当時の面影からは遠い格好であったのだ。病をわずらっていた。
先ず、腸の大手術、股関節の手術、そのほか云々。背中が丸く曲った。前かがみかと思うくらい曲った。前から色の白い顔が、抜ける程の白さであって、どんなにか、大変な思いの手術や病気と闘ったかと涙が出た。唯一救われたのがKちゃんの昔ながらの屈託のない笑顔と、サバサバとした話し方だった。
もらったものは仕方がないという。私なりに生きるわという。だからカーブスに誘った。
元々はスポーツマンだから一も二もなく入会し、せっせと通った。体力はあるよと自負するほどで、コーチのやさしい指導もあって背すじがのびて姿勢がよくなり、入会当初より、ボードからマシンへの移動もスムーズにできるようになった。少しの間の習慣で、彼女の顔は、いつ見ても笑っていた。空いた時間の活用で、誘ってもらって本当によかった、ありがとうといわれ、私もうれしかった。
が、何日か、時間のズレかなと思って、彼女に会えないのも、別に気にするでもないなと思っていたが、三日が五日になり、電話しても出ない。何かが起ったのだと、彼女のことをコーチに問うと、退会したという。?
どうして、何故、当然、ペダルを踏んで彼女の家へ。閉まっていた。家の周りを、ぐるぐるしている私をみつけ、近所の方が事情を聞いてくれて、ようやく納得した。何日か前に、逆算すると、ちょうど彼女の姿を見られなくなった頃だ。ご主人が急に倒れ、救急車で運ばれたそうで、彼女もずっと付き添っているとのこと。これで二回目の搬送で、病状も前回より重く、退院もわからないようだと知る。そうだったのか。私は自分の迂闊さに唖然とし息をのんだ。
私が彼女のご主人の入院を知った四月に最愛の孫を亡くし、悲しみのさなかに、他から聞いたといって、彼女から電話があった。
自分でも大変なのに、元気を出せとの電話であった。うれしかったが、当時は自分の不幸ばかりの中に居て、彼女を思う気持もうすれていた。孫の死から半年過ぎて、彼女のご主人も又亡くなられたのを知った。月日が過ぎ、傷心から少しずつ癒されて、私はカーブスに復帰でき楽しく通えるようになった。
でも、時として思い起すのは、彼女、Kちゃんのその後であった。
そんなわけで、フラッと寄ったKちゃん家に、「ごめんください!」と声をかけると、「ハーイ」と元気のいい声がして、ガラッとガラス戸が開く。プーンと香ばしい匂い。アララと御互い様に言いつつ、会いたかったとハグする。今ね、お肉を焼いているのよという。一人住居で、食事も一人だけど、主人の分も作って、仏前に供えるそうで、そのまっさいちゅう、家の中へというので、台所から続くリビングへ。そして、ぐるっと見回した周りの壁に驚いた。彼女をカーブスに誘った時の要綱の印刷物、又、スロートレー用の動作の図、カーブスマガジンからの切り抜きの、私が、尊敬し、大好きだからといつも話す、心理カウンセラーの、衛藤先生の記事までもが、所せましと貼ってある。その上に、プロテインの記事まで。現に、プロテインは飲んでいるそうで、タンパク質の勉強までさせてもらい、本当にカーブスへ行っていたころが懐しいという。その上、彼女の律義さなのだろう。一日12点摂取のタンパク質の為に調理用のハカリで、食材をいちいち計るという。これには思わず拍手してしまった。
いろいろ、べちゃべちゃしゃべって、それでも、時として、物思いに沈みがちな彼女に、過去は、私も貴方も変えられないけど、未来と自分は変えられるよ、又カーブスへ戻っておいでと誘ったのは、言うまでもありません。
休会中に、彼女に会うことができたこと。
カーブスをずっと支持してくれたこと、カーブスを経験し、心の中に残るものがあったこと、一時での安堵でも、筋トレとタンパク質の大切さを、私も再認識した次第です。
休会開けの一日目、なんと清々しく、新鮮なんでしょう。筋トレの、いやカーブスにひかれて来る。これこそ創業者が求めていたものでしょう。思わず、手を広げて、やっぱり来なくっちゃ!と言った私を、指導中のMコーチが、そう来なくっちゃ!と迎えてくれた。