私がカーブスに入会したのは八年半前。
腎臓ガンで二十五年間の闘病生活を終えた主人を亡くし、これから、どうしたら自分が家の中ばかりにいないで充実した毎日を過ごせるかと考えていた時でした。たまたま新聞に入っていたカーブスの広告を私なりに気になって保管していました。ちょうどその時にカーブスの勧誘を一軒一軒廻って訪問している方が我が家に来てくれたのです。
 私は興味があったので色々聞き、入会しました。
時間、曜日が自由と云う事などを聞いて、もしかしたら私にも出来るかも知れないと思いました。
「出来なければやめれば良い。」そういう気持ちで入会したのです。
カーブスに入り、少しずつやっているうちに足が軽くなり、歩くのが楽しくなりました。
新京成線のウォーキングにも、よく参加したりして、八キロ~十五キロ位の所まで楽しんでいました。
今、百四才の義母がいるので、ウォーキングも、思うように出来なくなりました。
でも、体力がないと義母の介護も出来ません。
カーブスに行く時に「お母さんの手助けをするためにカーブスに行くのよ。もし私が倒れたら何も出来なくなるからね。重い車椅子も、かかえて車に乗せないといけないしね。」と恩きせがましく云ってカーブスに行く口実を作っています。
約一年半前、姫路の母が家の建て直しのために、我が家に来ました。
たまたま私がカーブスに行っているのを見て、自分もやりたいと一日体験をし、入会したのです。
最初から姫路に帰るまでの間、カーブスに入会する事をコーチに伝えていました。
 実母は「まさか私がこの年で入会するとは思わなかったわ。八十七才で入会するなんて、どこにもそんな人いないわ。」と笑って話していました。
知らないカーブスの方々に、あちこち声をかけられ、だいぶ励みになったようです。約九ヶ月週三回の出席で頑張ってやっていました。
コーチ達からも「すばやく出来るようになった。」と、ほめて頂けるぐらいにまで、なりました。すぐ近くには母の住んでいる所で、カーブスがないので、帰ってからでも、続けたいと云う気持ちは、あったようです。
明日姫路に帰ると云ってカーブスにも挨拶をした日の夕方の事です。
夕食だと実母に声をかけたら、急に顔が青ざめて「気持ちが悪い。」と云って朦朧とした状態になり、救急車を呼びました。
救急車の中では、母の意識は、なくなりました。病院に着き、CTを撮って先生が「脳内出血です。かなり厳しい状態です。」と云われ、私も姫路の弟達に覚悟をしておくように伝え、万一の時は、どちらでお葬式をやるのかも考えておくように云いました。入院二日目、先生からお話があり「倒れた時に、もどした物が肺に入っている。一日目では、それが写らないので今日レントゲンを撮ったら、右の肺の半分が真白になっている。今度は、こっちの方も危ない。」と、三日目に母の意識も戻り、私の云っている事も少しは理解出来たようでした。
約一ヶ月の入院で脳の障害もなく生死をさまよう中で、何とか助かりました。
先生方は「奇跡としか云いようがない。」と。
リハビリの先生、婦長さん、看護師の方々、みんな母がカーブスで頑張ってきた成果が母の命を救ったと云われました。
普通の人でも、こんなに早く起き上がれないとも云われました。
いつも何げなくカーブスのコーチ達の云われる中で、筋肉が大切だと云われていても、耳からスーッと抜けていく自分がありました。
改めて母の命を救った筋肉の大切さ、筋肉の貯金。私は改めて、その事を母を通して身近に教えられました。
時々「お母さん、どうしてる?」とカーブスの方々に聞かれるたびに、母の身近に起こった事を話しています。
つい先日、家に水道工事の方が来られました。
ちょうど家の前のご主人がディサービスに車椅子で行かれるので、車を少し移動してほしいと頼み、車の誘導をしました。
すると不思議そうに「奥さん、すごくテキパキ動くねえ。普通奥さんぐらいの年の人なら、もっとゆっくりした動きだよ。」と水道屋さんは云っていました。
「カーブスに行っているのよ。」
「エッ?!カーブス?男のカーブスは、ないのか。」と云われました。
スリッパをはいていたにもかかわらず、私の動きを見て、そう感じてもらったのには私の方が驚きました。
何げない動きも、カーブスでの積み重ねなんだと思いました。
現在義母が脳梗塞で入院しています。
退院したら、もっと大変な介護が必要となります。
 私は、これからもカーブスに行き、現状維持で頑張っていきたいと思っています。