私はカーブスと出合わなかったら今この世に居なかったかも知れません!
幼い頃から今はもう亡くなり居ないけど、父親が女性にだらしなくて実母と結婚して私も居るのに仕事仲間に一人の女性を紹介されその女性は元々結婚歴があってそれも三人の子供まで居たのに近所の、それも長女を連れて男性の元に行ってたとの事でその間子供にはこの事はおばあちゃんには内諸だと言い子供に菓子やくだものを渡して口止めさせてたとの話しを長女から聞いてビックリ!!

まさか・・・そんな母親だったなんて父が亡くなった時に全て明らかになりました。
私にはまま母になる人で私自身実母の事は何一つ記憶にない為、この人をずっと自分の母と思い慕ってたけれど、やはり自分がお腹痛めて産んだ我が子とは違うって思われていた様で、何度も、言う事聞かないとか、勉強が出来ないのは祖父母に甘えさせられたからだと言って父親が吸っていたタバコの火を手首や首のつけ根肩の辺りに、泣いて謝っても許してもらえず今もそのやけどの跡として残っています。

それに何かとイトコの女の子(私と同じ年令で私の妹の娘)と比べる人でその子が部活やめると私にもやめる様に言って私は部活で友達が出来たし実家での出来事を忘れる事が出来る場所だからと思ってイヤ!だと云うとその夜は夕食抜きで親に反発したからとその日は翌朝までうら山に連れ出されて木にしばられ一夜をすごした事もあります。

時には真冬にシャワーの水を頭からかけられたり一番私が幸かったのは一人で真夏の日、留守番してる時の事です。
その夜母親が大きな声でどなる声がして聞いてみると・・・「冷蔵庫の上に現金を置いて在ったはずだけど無くなってる!」との事。
私は知らない!って云ったけれど、昼間この家に居たのはアンタだけ。アンタ以外に誰が居る?って云うの?」と云われ、「この家にどろぼうを住ませる訳ゆかない!そんな子はどっか行ってしまえ!」とどなられ、その上ゲンカンのタイル張りの上に、その夜は寝る事になってしまいました。
その時に私、ここに居たらいつか?母親にころされるかも知れない!」って思い父に頼んで父の実家九州に戻してもらう事に決めました。でも、それを知った母は私が九州の祖父母やおじ達に余計な事言うのが不安だったのか、もしアンタが謝って二度と現金ぬすんだりしない!と約束してくれたら居ても良いヨ!」と云ったけど・・・私はぬすんだ事もないし何一つ悪い事した覚えない為謝らず、父親にお願い!私の最後の願い聞いて欲しい!」って云ったら父は納得して九州に戻る事になりました。
結局無くなったと思ってた現金も冷蔵庫の後ろに落ちてただけでした。

それから九州での生活は本当苦労も有りましたが幼い頃から育った町なので即とけこみ、もう二度とこちらへは来ないだろうって思ってたけれど、高3の時ある友人が中退してその子とは大の友達で、私にも一緒に来て欲しいと云ってくれた。実は高校は私立で、すごく校則がきびしくて、くつ下は白で必ず三つ折りにして、その上スカートの長さはひざが少しだけ出る感じ。一番きつい校則はスカートのひだの数と下着の色までチェックされた事です。
別にお嬢様学校でも無いけれど本当にきびしい学校で、女子校と云う事で月に数回の茶道、いけ花、何だか花嫁修業みたいな事があって大変だったけれど、私的にはそれはそれで満足できていたみたいです。きっとそれまでの生活の事を考えたら自由に出来てたからかも知れません!

だけど、そんな時、大の友人が校則をやぶり退学。そしてなんとバスガイドになってしまいました。実は私、小学生の頃からの夢だったからまさか彼女にはその事話して無かった為、誘われた時には本当うれしかったです。
只九州だと観光地が多くレベル高いだろうと思ってあきらめかけてたら・・・なんと!母から連絡が届き「ぐうぜんなんだけど、 アンタがバスガイドなりたい様なら私の知人がその仕事関係者だから紹介したヨ!」との連絡が来て、その人は人事課の方でわざわざ九州までそれも私が通う高校まで私に会いに来てくれて、その場で即面談成立して合格してしまって、再びこの地に来る事になりました。

人事課の方に全て両親との事を話をして訳を話すと里親制度もあるから大丈夫だと言われバスガイドの仕事は時間に追われる毎日だから休みも余りゆっくり出来ない事多いと云って、皆と一緒に女子寮に住む事に決め、時々両親の誕生日や父の日、母の日に休む程度でそれと本当に急用有る時以外余り実家には帰る事はなかったけれど、それでも私が帰ると、その頃は何故か?優しい部分もあったけれど・・・でも私が結婚相手を見つけ、結婚すると云うと母親は「自分の娘でないから相談されても困まる!」と云って私の話しを聞こうとはしなくて。それが何時の間にか?その言葉を言ったのは私だと父には母は云った為、父親からすごく叱かられてしまい「もう二度と実家に戻ってくるな!おじいちゃんとおばあちゃん、俺の弟や妹とも連絡取れなくしてやる!!お前からの連絡は全て出来なくする!!親子の縁をたち切る!!」と迄云われ、ずっと両親との交流が恐くて出来なかったのに、主人は孫の顔さえ見せれば変わるだろうと云って私は嫌だったのに長女を産んだばかりだからそんなひどい仕打ちも無いだろう?と云う事でイヤイヤながら一週間実家に泊まる事になったけれど・・・
その間ハッキリ云って幸い毎日でした。
だってまだ産まれたばかりの長女に対して母は「アンタの母親はおじいちゃんとおばあちゃんをイジメる悪い母親なんだヨ!アンタの名前も顔に以合わず流行な名前付けてもらったネ!!アンタにはもったいないヨ!!」だって。
 まさかそんな言葉を産まれたばかりの我が子に聞かせるとは情けない!と思いました。
その為か?長女は私の実家の事を余り良く思っていなくて二人が亡くなりホッとした様な感じもあります。不謹慎かも知れませんが・・・。
只一つ私父親に母に内諸で全て母から云われた言葉やされた事話すと父は涙ぐみながら「すまなかったな!何にも知らずお前がウソ云う様な娘でない事は俺の弟や妹に聞いて解っているつもりだったが、俺には母さんを止める勇気がなくてお前に辛い思いをさせた。」と云ってくれて、それから半年後心臓発昨出て亡くなり、昨年母親がやりたい事十分やって亡くなり、借金だけ残して亡くなるという全く最後まで本当困まった性格で参りました。
そんな私ですが色々体験したけれど自分自身の身体が次第に病気になってる事に気付かず、一時期体重が80kg程になり、このままだと命がもたないと主事医に云われ、ダイエットしたけれどリバウンドばかり。
その上大きなケガをして温水プールにて歩行練習してる時、すべって恐い思いをした為、代わりになる運動が何か無いかと?探してる時、ぐうぜんテレビでカーブスの事を知って時々買い物帰りの時、むらさき色のカンバンが有る建物が気になってた事もあって一度見覚だけでもと思って行ったのが今から一年と4ヶ月程の事です。

今住んでいる自宅から歩いて通ってるけれど、最初は杖とサーポーターを着けて、それもセンター迄の距離も建康な人なら10分か?15分程度だと思うけれど、私の場合右足関接が粉さい骨折で今も金属が三本入ったまま一生サポーターも外出する時、特に遠出する場合は必要。
そんな私が何と今では体重が62.5でカーブスに入った当初は70kgだったのです。
それに歩く速度も少し早く歩ける様になりましたし、何よりもこうして今「エッセイ」書いてる事自体びっくりです。
それまでは何にもやる気なしで何度もリフトカットしそうになるけれど、ふるえが出て出来ない!!だけど生きている事も幸いと迄思っていましたが今ではそんな自分はどこかに消えてしまいました。