カーブスに入会したのは八十才の時だった。
人生の残り時間が少なくなってからの入会の動機は、七才年上の夫を恙く見送ってのち、私はピンコロと旅立ちたい一念だった。
老後を健やかに暮すために心がけてきた事は、ストレスを溜ない、料理は高血圧食事、運動は体のゆがみを直す体操を長年つづけてきた。その甲斐あってか、行き永らえてきたが、この先の超高齢を生きるために、運動に何かプラスしたいと思った時、近くにカーブスがあった。若者のジムと見送ってきたが。筋肉は年令に関係なく増やせる、蘇生する力が強いと知り今からでも間に合うならと申し込んだ。

五年通っている。何年も風邪も引いていない事に気がついた。体重5K減、年寄は膨よかな方が貫録があって良いと思っていたが、それは大きな誤解であった。背が低い上に、年と共に縮んでゆく我身には軽い程良い。
しっかり睡眠がとれている。これ迄は夜中に目覚めて朝まで眠れぬ事が度々あったが、今では二度三度起きてもその都度眠れている。
膝の痛みが変った。痛みが和らいで労られている様な感じがする。急ぐ時歩ける。少々重い荷を持っても歩ける。転びにくくなった。転びそうな時踏ん張れる、階段は数えながら昇り降りする。

体力年令が10才若く出た。
「さちこさん、今月は何回?、13回スゴーイ頑張りましたね」と店長さん。
こうして元気に歩いて通って来られる事は当り前ではないと思っている。
85才の老体に、意識を向けてマシンを動かし、努力をして得た結果だと思っている。
今後の目標「食べても太らない体づくり」成果表に「食べても太らない体ゲット」と書いたメンバーさんを羨ましく思う。
無理を承知で目標にしたのはなぜなら、おいしいものを、我慢しないと決めたから。私には先が無いという大義名分のもとに。

福岡県大牟田市昭和五年生れ八十年の私の来し方を振り返って見る。
今年は戦後七十周年、思えば昭和一桁生れの私達は育ち盛りと青春期が、戦中戦後と重なっていた。生活必需品が切符制だった。米殻通帳、衣料切符、生きるためのものが配給だった。お金があっても物が無かった。食糧難の中で国策の評語「ほしがりません勝つまでは」を胸に堪え忍んだ。
女学校三年生の時終戦になった。女学校は空襲で全焼し私達学生は動員され、軍需工場で働いていた。勉強は出来なかった。
戦後の復興は目ざましかった。
日本国憲法が施行され、教育制度が六、三制の男女共学になり、民主主義になった。
昭和二十五年、二十才で結婚した。
夫は、学徒出陣、中国派遣、復員、復学、企業入社、二十七才の新入社員だった。
結婚後一年間は家風見習として柳川の夫の実家で暮した。(福岡県柳川市)古い大きな家の茶の間の主役は、ラヂオだった。紅白歌合戦の第一回は、正月特別番組だった。(唯一の娯楽だった。(当時主食は配給だった)。紅組、二葉あき子、渡辺はま子、菅原都々子白組、藤山一郎、東海林太郎、近江俊郎他。

やがて、世の中の経済が発展して少しづつ暮しが豊かになった。やがて高度成長期になる。
昭和三十年、企業戦士の夫が大阪支社勤務になる。
長女四才次女一才、私二十五才。
会社大阪中島三井ビル 社宅兵庫県西宮市。
西宮市に十五年住んだ。その間の日本経済の発展は、世界の注目を集める程の急成長をした。世の中の暮しは大へん豊かになった。

子育てを終えた私達主婦は、学び事に無中だった。さまざまな事に挑戦して資格を取りやりたい事を好きなだけ学んだ。いい時代になったと喜んだ。戦時での混乱を過した私達に神様が微笑んで下さったのだ。世の中は更に豊かになっていた。それも当然で、いざなぎ、景気の最高潮になっていた。各家庭に電化制品が来て、ピアノ、テレビ、車も来ていた。
人口一億人、総中流時代と新聞は書いた。昭和四十六年、企業戦士の夫は東京本社勤務になった。
霞ケ関ビル、社宅、世田谷区、長女大学生関西に残る、次女高校生東京へ。
上京して一週間、突然私に仕事が舞込む。西も東もわからぬお登りさんは、大いに慌てふためいた。いづれ将来は仕事をしたいとは思っていたが、こんなに早くては困る、今ではない、自信がない、勇気もない、夫の理解もない、時間も・・・

「渋谷教室が明後日開校です行って下さい」
なんと唐突に、・・・そんな無茶な、・・・ありえない、・・エエエ・・・ ヤルッキャナイ!!
こんな風にして私の仕事は始まった。
近代和装のパイオニアK代によって関西で始まった着付の学院が全国に広がっていた。私が勤務した着物総合学院は在籍講師四十名の大手学院で活気に溢れていた。私四十一才だった。
伝統の着物は戦争のため長い空白をもたらしていた。親から子へ、子から孫へと伝へられていた知識、マナー、着付が伝わらなくなっていた。着付学院が広まったのは当然だった。
着付の大ブーム時代。思いがけぬ仕事が来て、四苦八苦した。
TV NHK婦人の時間
先例がなく参考にするものが無い、切磋琢磨して勤めた。
ヨーロッパで着物ショウー。(着物外交)
パリ ソルボン又大学とハワイ大学で、キモノセミナーを毎年開催した。
国内外で着物の普及と着物文化の継承や啓発に大きな力を果したと思う。
ミスインターナショナル
ミスパシフィック
世界の美女達に振袖を着せた。

宮家妃殿下に宮廷衣装の御進講の栄に洛した。
筑波化学万博の大舞台で十二軍の着装を野外のハイビジョンで映し出されていた。
着物文化貢献により、その筋の戝団より、
「着物助成賞」を戴いた。

時代の波に乗って、助けられて幸運に恵まれた仕事は終った。私六十才
夫と旅行が出来るようになり、まず、ロンドンのウインブルドンに娘一家が在住していたので、四十日居候して、そこを拠点にして各地を旅した。
ホノルルウォーキングに参加して、ダイヤモンドヘッドのヘッドに立った。最年長の夫が団長をつとめた
ミレニアムは、我が家の記念の年だった。
七十七才と七十才の金婚の夫婦にとって、たぶんこれが最後の海外旅行になるだろう。
リヨンは留学中の孫の洋子がおり、慰問を兼ねた旅行だった。この町は96年にサミットが開かれた、フランス第二の近代都市と聞く。
ホテルは洋子の住む学生アパートの近くにとってもらった。ここに二週間滞在して、日頃ウォーキングで鍛えた足で二人してこの美しい街を心ゆくまで散策した。
世界のグルメ、食いしん坊のメツカと名付けられて、この食通の地で、フランス料理を楽しむのも目的の一つだった。
レマン湖の周遊も。・・・・二週間はアツと云う間に過ぎた。
旅の思い出は心温まるが、苦しかった事、辛い事、悲しい事、嫌なこともそれ以上あった。
心が寒いで詳しくは書けないが。

80才過ぎてもゴルフを楽しみ、終身名誉会員のゴルフ場の名物爺さんが、脳梗塞で倒れた。大きな後遺症は残さなかったが車椅子の生活になった。
私は脳虚血発作で右半身麻痺になった。
努力と気力で立ち直ったが、右手が痺れて字が書きにくい。パソコンを辞めた事を悔やんでいる。その頃から老いがジワジワと寄せてきた。
少しばかりの知性は遠ざかる。その後のうつ状態が辛かった。長いうつのトンネルから抜け出した頃に、肉親との別れがあった。次々と。長生きしているので、色々あるのは、当然だが。もうしばらくの間頑張らねば。
マシンに心を通わせて体を動かせていると、大きな安心なものに守られている様な気がする。私はカーブスに支えられている。
カーブス 心からありがとう。
カーブスに出会えてよかった。