2009年(平成21年)6月6日に、私は、生まれて初めて、自分の事で救急車のお世話になりました。
 事故が起きたのは、小田原での朗読ライブが無事終了した夕方、会場の書店の向かい側にある寿司店へ、集客のお礼に到来物の大きなクッキーの缶と花束を届けに道路を横断中でした。
 40分近い朗読劇を演じきった高揚感と、疲労が、注意力を散漫にしていたのでしょう50cm高の縁石が全く目に入らず、まともに躓いて、歩道に倒れこみました。
 手に持った物を離せばいいのに、持ったままでコンクリートの道路にたたきつけられたのです。両方の手首で50kg以上ある全体重を支えたのですから、たまったものではありません。すぐに起き上がろうにも、両手がブラブラで、言う事をききません。痛みよりも一瞬何が起きたのか訳がわからず、頭の中で真っ白になりました。
 幸い、意識はしっかりしていましたので、声をかけてくれた通りがかりの女性に、書店3階の会場にいる夫に知らせてもらいました。
 まもなく救急車が到着しましたが、土曜日の夕方という間の悪さもあり、受け入れてくれる医療機関が、なかなかみつかりません。
 車中でほぼ30分待たされて、ようやく小田原市立病院から受け入れOKと、返事がきて、市の中心部から少し離れた病院に搬送されました。
 診断の結果は右手首複雑骨折、左手首粉砕骨折で手術の適応となりました。
 しかしあの当時は、脊柱管狭窄症治療の為、血流をアップさせる薬を服用しておりました。手術の時は服用中止が前提になります。再び腰痛が起きる可能性が高いので、時間はかかりますがギブス固定での治療を選びました。
 肩から肘と手首の2節をシーネ固定して帰宅し、1日おいた月曜日に当時の湯河原厚生年金病院の整形外科を受診しました。
 2関節固定ですから、動かせるのはわずかに5本の指先だけ。15日間そのままです。
 これは1人では何もできないという、拷問に等しい状態です。
 それに加えて痛みもすさまじく、最初の晩は一睡もできません。座薬を6月いっぱい使うハメになりました。夫の渾身の看護がはじまりましたが、男性の悲しさ、歯磨きとシャンプーのケアが全くできません。しかたなく1日おきに歯科へ、3日おきに美容院へ通う日課が、7月いっぱい続きました。
 自分の手が多少なりとも使えるようになるまでの間、夫はもちろん、何人もの友人に助けられました。一日中何もできないので、動かせる指先だけ使ってワープロを打ち、ライブの関係者へのお礼とおわびの手紙をしたためました。封書の字が書けないので、上書きは友人に頼んで発送でき、やっとひとつ肩の荷がおりた気分になりました。
 悪夢のような日々が過ぎ、6月の22日に、ギブスが1関節となり、肘が動かせるようになったので、フォークを使えばなんとか自分で食べる事が可能となりました。バンザイ!
 改めて半分だけ人間の尊厳をとり戻しました。(トイレの始末はまだ無理)
 座薬も25mgとなり、7月に入ったところでこれも不要になりました。
 7月16日。待ちに待ったギブスの取り外しです。
 帰宅後すぐに、42日ぶりに腕を洗い、我が目を疑いました。毛穴が黒ずんで、手の甲に毛が生えており、いくら洗っても次々と剥がれる垢、垢、垢。洗いあがった腕は一見元通りに見えましたが、中身はフニャフニャと力が入らず、なんとも頼りない状態で、後に控えるリハビリの過酷さが想像できました。ギブスが取れても、あと2週間は手首を固定する革製の頑丈な装具をつけなくてはなりません。 両手の握力はほぼゼロ、バスの切符を手に握っているつもりでも、ポロリと落とす事等日常茶飯事でした。
 すぐに始まったリハビリは、想像した以上に困難の連続でした。途中で指と肘に腱しょう炎を発症するアクシデントもありましたが、週2回から始まって、最後は2週に1回と間隔があいていき、11月初旬に通院が終了しました。後は自主的にリハビリを続け、握力が戻るように、必死の努力を続けました。
 私には、料理と和服の着付けという強固なモチベーションがあったおかげで、なんとかこの危機を乗り越える事ができたのです。料理は比較的早くできるようになりましたが、和服の着付けは翌年の4月まで、全く無理でした。
 骨折後初めての着付けは、痛みにうなりながら、大汗をかいて、いつもの倍以上かかって、やっとの思いで着付けられたといった始末でした。
 高い縁石に躓いたとはいえ、骨折を回避できずに転倒したのは、年齢相応に、骨も弱くなっていた上に、踏ん張るべき脚の筋肉がかなり減っていたからだったと気がつき、もっと早くカーブスの存在を知っていたらと切歯扼腕しました。
 平成18年まで住んでいた横浜の白楽には近所に2ヵ所もカーブスがあったのです。歩くのが好きで、ウォーキングを日課にしていましたが、筋トレにまで全く気がまわりませんでした。骨折してから2年後の平成23年に熱海にもカーブスができて、渡りに舟と入会しました。開設とほぼ同時ですから、7月で満7年になります。
 横浜で長いこと料理教室をやっていたので、熱海に来ても、食による健康管理と有酸素運動は毎日続けています。そのせいもあって、体重とサイズにあまり変化がありませんが、足元の安定感が増し、歩く早さは若い人にも負けません。この調子で、年を重ねていけたらと願っています。
  私がカーブスを退会するのは、認知症を、発症するか、あの世という所へ行ってからだと確信しています。
  あの世には筋肉もなければ、カーブスもありませんから。
  山の上に住んでいますので、週に2回しか通えませんが、息長く続けていきます。
 ノーモア骨折、あの辛さは、二度と味わいたくありません。