去年の夏のおわり。畳に寝ころんで何げなく組んでいる足のふくらはぎをさわった。とたんにウッ!と驚く。来たな!ついに来てるんだこれ!!と。私は当年75歳。大阪空襲のなかを両親の里、高知県宿毛市へ引揚げて弘法大師のお社に見守られて幼少のころより澄みきった小川の小魚たちと遊び、小学生になると姉たちの魚採りの技を見よう見まねで修得し四年生ころよりはもういっぱしの"魚採り名人"と呼ばれていた。父は軍隊で大豆ばかりを、そのあげく胃をこわし切除。ほとんど寝ていたし、母は五人の子どもを食べさせるため、大阪で取得していたナースの資格を生かし県立病院に勤務。家事と父の世話は姉二人と兄、そして私へ。私にできることは川で魚やエビ、時には鰻をとってくること。これがかけがえのない私の誇り高い仕事(・・)であり同時に最高に楽しいあそび(・・・)であった。戦後の貧しい時代であり、肉が食卓にあるのは一年にただ一度、大晦日の夜ときまっていたが、日ごろは私のとった魚たちが焼魚となり煮魚となって五人の成長盛りの大切な骨(・)となっていた。そんなわけで身体の丈夫ひとつをとりえに成長し、ここ愛知の教員となり、二児の母となり、44歳で一度学生となったあと言語療法士となり70歳で退職。元気そのもので生きてきた。なのにである。この頑丈なはずの私の足、そのふくらはぎがなんと!!ペタペタと、いや驚ろいた。まるでスカートのようにペタペタと揺れているのだ。頭の隅にあった知識がにわかに現実となった瞬間であった。加齢とともに筋肉は減少する!同時に筋力低下、これは必定と。とうとう私にも74歳でこのお客様が静かにやってきたのだ。これはいかん、なまじっかのことでなく、きちんと本格的に筋力トレーニングするべし。
 私には40代の息子と娘がある。娘がハイハイするころ開け放たれた窓に向かって突進。そのまま落下すれば裏庭のコンクリートの沓脱ぎだ。私は娘の進行方向とま逆にある椅子にすわっていて、気づいた瞬間身体をねじり娘をつかまえに。ああよかったと抱き上げたとたん、私の身体がくねくねと紐状になり赤ん坊の娘は畳に放り出されんばかり...。病院へ直行し椎間板ヘルニアと診断され、要一ヶ月の安静。それ以来40年近くを腰痛持ちの日々。60歳で転機到来。結婚した娘にいのちが宿った。50歳の時に夫が病死しているので孫が来ることのよろこびは代えがたいものがあった。うれしい!飛びあがりたいほどの思いと同時に、困った!私のこの腰は?孫も抱けない?!その時私の頭をよぎったのが、作家三島由紀夫のこと。彼は昭和45年に45歳で、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自殺をした。大変な事件であったがその時の三島の身体は筋骨隆隆たるもの。しかし実は彼は幼少のころはきびしすぎる祖母によって女の子のするあそびしか許されず、実にひ弱な虚弱体質の子であったと。一念発起、自らの身体改造を決心しあの肉体をつくりあげたと。そうであった、人間の身体は自らの努力と意志で改造することが可能だったんだ。私も初孫が抱ける身体に改造するのだ。そう固く決めたのが60の時。その初孫は今年高校生になった。ちょうど15年をかけて私は腰痛を卒業している。近くにある接骨院の先生の施術を受けたのは初孫が誕生して生後十か月まで。娘の舅が脳血管障害に見舞われたことで、私は専ら仕事以外の時間は初孫のお守り役となり接骨院通所はかなわず。先生のされていたことを想い出しつつ一日に数時間は必ず体操を続けた。身体のひどいゆがみをとったことで、腰痛が消えた。私の75年を生きてきたこの人生で唯一自慢できること、自分で腰痛を治したのだ。まさに孫力は偉大なりと実感。
 さあ、今度はふくらはぎのペタペタだ。どうしよう?!どこでどのように筋力トレーニングは?そう思ってすごしていたある日、全くの偶然であるのだが私の住むマンションにチラシが入った。「カーブス」という。カーブスで楽しく筋力をつくりましょうと。びっくりしつつもともかくもまずは無料体験だ。自転車でわが家から十分もない。飛び込んだカーブス名鉄小幡駅前店。いつも利用するコーヒー屋の奥にあった。いらっしゃいませ!若くてにこにこ笑顔のお姉さまたちが迎えてくれる。もうこれだけで何やらほっとしている自分がいる。一目で見渡せる教室全体には、サーキットに並んだ人、人、
人。それが全て女性であり、年代もほぼ私に近い人たち。いや不思議な感情に見舞われる。かつて自分が若かった時、女子だけのクラスを担任すると今感じるところと正反対の感情、何か異様なものを感じていた。世の中は男と女があってこそ。それが女子だけ40数名の学級、慣れるのに大変だったことが想い出される。今75歳となって同性だけの場所というのが、こんなにも安心感とほっと感をもたらしてくれること、夢のように心地よいのだ。着更えも、汗をふくことも、水分補給も、マシン操作をまちがえても、そのマシン運動の回数がたとえ数回だけしかできなくても、フロアに寝ころがっても何をしても大丈夫。"はずかしい"も"カッコワルイ"も"みっともない"もそれら負の感情を持たないですむのだ。私はもうこれだけで"ここはいいぞ"と決めていた。そしていざ、12個のマシンの使い方を学ぶ際のお姉さんのやさしい語り口、ていねいさ。"うんこれはいい!きめちゃおう"即断であった。その場で入会申込みを終え、帰宅してすぐに戴いたカーブスのパンフを読む。カーブスを日本に導入された女性社長のお話。これがまたステキだった。アメリカで実地に体験、研究され、その結果をこれぞ日本のいま、日本のこれからの超高齢化社会にぴったりのものと考えられたそのセンスのよさ。即断で入会したことにまちがいはなかった。
 こうして入会した日よりきょう三月末でちょうど半年が過ぎている。ここのところ、月始めの計測もまた楽しい時間となった。数値がよくなってきたのだ。担当のお姉さんはにこにことみなさんに自慢して下さいねと言う。成果の程は毎日の暮らしの中でじわじわと実感できはじめていた。坂道を自転車はどうしても立ちこぎでなければならないところが、気がつくとすわったままで平気で登っている。これにまずは驚いたものだが、もっと驚いたのはこのふくらはぎだ。ペタペタが消え、なんと!固くなってきている。ムムム......何度さわってみても確かに固くなってきているのだ。久しぶりに会う人ごとに「えっ?!アンタやせた?」と言われ、孫たちからは「おばあちゃん、病気したん?」と。いやいやそのたび、私がどれだけの笑顔で、どれだけの熱をこめてカーブスのことを話しているか......ボランティアと趣味の会で忙しく、一貫して週一回のカーブスであるが、何より快であることはこの心地よい汗。そのあとの身体のスッキリ感。私の大好きなひとときとなったカーブス。続けないわけがないのです。カーブスは私の筋肉の救世主。以上が私のカーブスを続ける理由です。あと10年を、現状維持の体力、気力で生きていきたい。カーブスとともに。これが目下の私の夢なのです。カーブスに巡りあえたこと、これが私の夢を実現可能にしてくれると信じています。