私は小さい頃から、体を動かす事が大好きでした。小学校の頃はリレーの選手。中学校はソフトボール部で四番バッターとして活躍。「右の王選手かっこいい」と卒業アルバムにも載りました。高校は家から遠くて自転車で片道一時間以上かかり、運動部には入れませんでした。短大ではソフトテニスをしました。家庭婦人となり団地でソフトボールチームを作り、何年かやりました。少ない人数で雨や風に関係なくできるスポーツと思い、バドミントンを始めました。子供達も少し大きくなった頃は、仕事と週三回のバドミントンという時もありました。
私には三人の姉がいて、一番上の姉が病気になり仙台の病院に入院した時、私は仕事に看護に頑張ったのですが、六十一才の若さで天国に行ってしまいました。その頃、家で、ものすごいストレスを感じる事があり自分をコントロールする事ができませんでした。そんなある日、乳ガン検診を受けた時、甲状腺に問題ありと言われ、検査した結果、甲状腺癌で、すでに一・二cmあり、ステージⅤと言われ手術する事になりました。義妹に「なんでお姉さん平気でいられるの?」と聞かれました。「だって悪い所は治すしかないでしょう。」と言ったものの、どうしてだろうと自分で考えてみました。姉の看護をしてて、つらいつらい姉をずっと見てきて、それに比べれば私は自覚症状もなく、なんてことないよと思いました。退院の時リンパに転移していると言われ、手術が終わり一生薬は飲まなければいけないけど「あ~終った!!」とほっとした時だったのでショックで初めて泣きました。
甲状腺シンチグラフィー検査を受けて来てください。と言われ、不安で仕方ありませんでした。それを助けてくださったのは、小児科の看護士さんでした。経験している人は少ないと思うのですが、たまたま自分の経験を話してくださって私はほんとうにすくわれました。
しばらくして数日の入院だったのに、体力がなくなったなあと思い、なんとか体力をつけたいとなわとびをしました。やっていたら太ももが痛くなり数日で歩けなくなったのです。緊急入院となりもう痛くて痛くて大変でした。結果、腰椎椎間板ヘルニア・仙腸関節障害という事で、ブロック注射などをしたのですが歩けるようにはならず、腰椎椎間板ヘルニアの手術をしました。今までずっと運動していただけに筋力がすっかり落ちてしまい、お医者さんも「やせたね」と言うくらい体重も減りました。退院して歩く練習をしました。筋力がないって生活にこんなに大変なんだと思いました。車の運転もできない。足がブレーキに上げられないのです。
 カーブスに通っていたバドミントン仲間に筋力がつくからやってみたらとさそわれて、車の運転がなんとかできるようになってからカーブスに入会しました。初めはレッグ・プレスに足を乗せられませんでした。それでも仕事にバドミントンそしてカーブスと少しづつではありますがやっていました。
筋力が少しづつつくにつれて足のつりが始まってとても大変でした。あまりのつらさに「バドミントンやめようかな」とお医者さんに話したら「つるの覚悟でやってたら」と言われました。体を動かしている方が良いという事なのでしょう。薬を飲み、泣きたいくらいつらい時も沢山ありましたがなんとか続けてきました。今は朝、目がさめて夕べはつらなかったとホッとする日もあります。
腰の手術をしてから散歩も思うようにできず、走る事もできない。足を広げる事も、正座もできないと、できない事だらけです。それでもやめるよりは少しでも体を動かせばプラスになると思いカーブスもバドミントンも続けていました。
六十才で仕事をやめ、少し体力に余裕がでてきたかなと思っていたら、右肩腱板断裂で手術する事になり、さすがに二十六年続けたバドミントンはやめました。簡単に考えていたのですがなんとか動かせるようになるまでカーブスを九ヶ月休みました。
カーブスマガジンを見たり、クラブの人の話を聞いたりすると、とてもうらやましいです。どうしたらそんなに成果がでるのかなあー。私は最低体重で入会したので、初めは体重が増えても筋力ついたねと言っていましたがどんどん増えるばかり。いつになったら減るのか。体脂肪もたっぷりあり、良いと言う事はいろいろためしています。病院通いも多く、いろいろな病気もあり朝は十種類の薬を飲んでいます。一つでも減らしたいのですがなかなか無理です。
今の私は、仕事をやめた事で体力が少し余裕ができた事、大好きなスポーツができなくなった事、平日の夕方は二人の孫の世話をしていて、孫の世話をするには元気でいなければならない事、散歩をすると腰が痛くなる事などで、せめて三十分だけでも体をしっかり動かしたい。そんな気持ちでカーブスを続けています。