今回は全く異なる観点からグローバル的に世界で80カ国以上に展開しているカーブスの事を私の米国、英国での短期語学ホームステイでの実体験を会員の皆様への何らかの参考にと記しました。

【ボストンの犬専用針灸院(初めて「カーブス」の名を耳にした日!)】
カーブスは1992年に米国テキサス州で誕生しました.その6年後、1998年に私はボストンに短期語学留学を62歳でしました。
現地の見学授業のある日、センター街のバス停付近で老犬を連れた人達が入れ変わり立ち代り出入りしている店があり「何か犬のグッズの店かな?」と思いました。飼い主に引かれて店から出て来る老犬は気持ち良さそうに目を細めてユックリと歩いていました。学校の先生に「何の店ですか?」と聞くと何と「犬専用針灸院です」との答えにはビックリしました。シニアの飼い主さんの中には足を痛そうに引きずって歩いていている人もいました。先生に「人間様も犬と一緒に治療を受けられるのですか?」と再び聞くと「人間様はNOです。犬が治療を受けている間に近くの{カ-ブス}で運動する人はいます」と答えて急ぎ足で目的地へ誘導されました。「カーブスって変な名前やワー?何をする所ヤロ?」と思いました。「Curves」とは英語では曲がりくねった道?それとも女性の曲線美?の複数形?」等と想像しながら歩きました。その時が「カーブス」なる名前を聞いた最初の瞬間でした!
針灸は東洋の治療で米国でも人気で人間様の行く鍼灸院も増えつつあると聞きました。当時の日本では「犬専用針灸院」は皆無でした。
日本の私宅で大きなラボラドールリトリバー(盲導犬)を飼っていたので痛く感動しました!

【移民の国で危険体験(米国の日々の安全・その1)】
ボストンの地下鉄は「レッド・ライン、グリーン・ライン」と言う風に色分けの名前で分かり易く区分されていました。
私の通学ラインは「オレンジ・ライン」です。学校では「オレンジ・ラインは人種問題のトラブル等が多い地域だから気を付ける様に!」と言はれていました。
ある夕方、帰宅の道の角で10才位の黒人の少年が近付いて来て「Give me money!」と手をニューと私の前に出すではありませんか! もうビックリして、とっさに一目散に逃げました。こんな時はどうすれば一番良かったのでしょうか? 後で「幾らかのコインを渡した方が安全かも?」と言う人もいました。
私のステイ地域は黒人が沢山、住んでいました。通学する学校、美容院等は白人が行く所と黒人が行く所が暗黙の了解の中に区別されているのに気付きました。日本人の私としては、こんな現象は初めて目の辺りにして「何故なのかな?」と思っていました。
ホストママに自宅の近くで「この地域は近付かない様に!」と注意されていた場所がありました。ある金曜日、学校帰りに、その近くを歩いていると小学校から美しいゴスペル・コーラスが聞こえてきました。つい、日頃のママの注意を忘れて私は(元)音楽教師の職業柄として、声のする学校へ小走りに近付いて行きました。グランドに入ると黒人の小学生(10、11才位)が数人、運動場で遊んでいました。私は背が低いので背の高い女の子達に見下ろされました。この辺りには日本人は殆どいないと聞いていたのでアジア人が珍しかったのか、女の子達が私を取り囲みました。
その時、私はプラチナの結婚指輪と小さいルビーの指輪を重ねて指にはめていました。とっさに「何が起こったのか?」と思う間もなく私の指輪の左手を指差して「Give me your ring!」 と言って囲んだ輪が段々と小さくなって女の子達が私に近付いて来るじゃありませんか! ママが「人種差別は良くないけど、米国は{人種の坩堝}とか{大きなミックスサラダボール}と言われる国では色々なトラブルがあるのヨ!だからどうしても黒人を疎遠視する方が安心感が生まれるのヨ!黒人は子供も体格も良いし攻撃的でエネルギッシュだから近付かない様にネ!」と言われていた事がトッサに頭をよぎりました。「どうしょう!」と道側の門を振り返ると丁度、中年のカップルが歩いて来られました。「兎に角、逃げよう!」と中年のカップルに向かって「Please wait!Wait!」と言って運動場から走り去り何とか難を逃れて帰宅しました。ママに説明しようとするのですが緊張が解けなくて「直ぐには声が出なかったなー!」と苦々しく思い出します。
肝っ玉ママは「あの近くに行ったらたらダメと言ったでしょう!自
分の為だから気を付けてネ!」と本気で私を叱りました。翌朝、ママが早くから身支度をしていました。「どうしたのですか?」と聞くと「今日はエミーのボティーガードで学校近く迄、送って行く!」との答えに「何て素晴らしいホストママ!」と思わず涙ぐみました!

【この時の反省】
1 高価な本物の貴金属は通学時には身に付けない事。
2 通学時は逃足が早い様にスカートよりもズボンが適当。
3 靴は歩き易いスニーカーで。
4 財布は紙幣用とコイン用の2つにする。
5 非常用に隠しポケットに小分けした紙幣を忍ばせて置く。
以上のポイントを守ることを肝に命じて残った時間を過ごしました。「外国での人のアドバイスはチャンと聞く!」を身をもって実体験したチョト怖わーい話です。海外旅行、海外語学ステイをしたい方々に非常に参考になる実話なので記しました。


【ボストン名物の食べ物とチップ(海外でのチップの効用)】
これは日本人に馴染まないチップの効用の体験談です。
ある日、ホストママとボストン名物の「クラムチャウダー、牡蠣、サーモン」等を注文して、仲良く半分に分けて味を楽しみました。食事が終わると各テーブルに立派なブックカバーに挟んだ勘定書をウエイターがうやうやしく持って来ました。ママは「美味しかったし、サービスもよか良かったから!」と(当たり前と思うのですが?) 10%のチップを上乗せして支払いました。ウエイターが戻って来て急に私達をレディー扱いにして椅子を引いたり、荷物を手渡したりしてサービスが良くなった様なき気がしました。海外でのチップの習慣は海外の美容院等で高い支払いの他にチップをはずむのは日本人としては理解が出来なくて以後、数回のステイでも中々、慣れませんでした。


【生まれて初めての1人旅(自立心の大切さ!)】
1日6時間の4週間の授業を終えて、最後の訪問地ミネアポリスにシカゴ経由「シカゴ・オヘヤ空港」へ、フライトしました。62才にして生まれて初めての全くの1人旅でした。オヘア空港は米国でも規模が大きく米国で最も忙しい空港の1つです。日本の成田空港の比ではありません。その広さに圧倒されオタオタしました。タクシー乗り場をヤット見つけて乗車出来たのも束の間、シカゴは南米系の人が多く働いていて、タクシーの運転手がスペイン語風の巻き舌英語に閉口しながら、ヤットホテル名が通じて目的のホテルに到着しました。


【この時の大失敗談】
それはミネアポリスの友人宅に旅立つ日の事でした。フライト迄に時間が充分あると思い荷物をフロントに預けて美術館に出掛けました。行きは順調に美術館に着き名画を鑑賞しての帰路、ハプニングが起きました。電車が故障して30分以上も止まりました。日本とは異なり余りアナウンスもしなくて「いつ発車するのか?」分らなくて心配で胸が早鐘の様に打ちました。ヤット発車して下車し、どの様な道を走ってホテルに辿り着いたか覚えていない程の慌て振りでした。空港に近いホテルに宿泊したのが幸いしました。急いで荷物を手にしてリムジンバスに飛び乗って無事にミネアポリスに飛び立ちました! 以後、飛行機の移動日は「どんなに時間の余裕が有っても、何が起こるか分らないので絶対に乗物での外出はしない事」を鉄則にしています。


【最終の地ミネアポリス】
ヤットの思いでミネアポリスの空港に到着しました。小、中学校と9年間、同級生だったAさん(米国で歯科医)が荷物の出て来るターンテーブルの場所に立って手を振っている姿が目に飛び込みました。嬉しさと安堵感でホットしました。車で彼の家に遂に到着しました。彼の奥様、Mさんは米国人、日本に何度も来日されていて久し振りの感激の御対面でハグし合いました! 数年後、Mさんはカーブス会員になられました。日本に来るとユニクロで沢山のTシャツをカーブス用に買って帰国されていました。
最近、Mさんの家の近くのカーブスが遠い場所に移転したので退会されて「恵美子さんは健康のためにズーット続けてね!応援しているよ!」と励ましのメールが着信しました。
昨秋、日本に帰国された時「カーブス津田沼店」に御案内しました。スタッフの方々と短時間ですが談話されました。    


【イヨイヨ帰国の日が近付く(空港での荷物チェックが重要!)】
40日間近いアメリカ滞在も終わりに近付きました。米国の訪れた至る州にスターバックスのコーヒー店がありました。ボストンのホストママが「エミー、日本に帰国したらスターバックスの店を開店しなさい!」と奨められました。当時の日本ではスターバックスは1軒もありませんでした。今の日本には「スターバックス店」は至る所にあります。スターバックス本部はシアトルにあります。
(後に語学ステイを兼ねて大ファンのプロ野球選手のイチロー選手のプレーをシアトルマリナーズの球場で観戦しました)   
帰国のフライト当日は辺りが未だ薄暗い早朝に彼が車で送ってくれました。その時リュツクとハンドバックを首から掛けていて、英会話用のウォークマンを腰に巻き付けていましたので、身の周り品は3つでした。荷物チェックのベルトから出て来た荷物を余り注意しないで先ずウォークマンを腰に巻き着けて、リュツクだけ持ってゲートに移動しました。直ぐに「ワァー!ハンドバッグを忘れた!」と気が付きました。何とバックには「パスポート」が入っていました。脱兎の様に走ってベルトの所に戻ったらハンドバッグは無事にありました。秋元氏が「落ち着いて!落ち着いて!」と後ろから大声で叫んで呉れたので我に返りました。以後、パスポートの入ったハンドバックは必ず身に着ける!手荷物の数は出来るだけ少なく!」を鉄則にしています。


【2001年 英国の温灸院(海外での健康維持は?)】
ボストンから3年後、英国のチェスターにステイしました。来る前から腰痛に悩んだまま当地に来ました。学校のスタッフに「針灸院」を紹介して貰いました。お医者様は50代で「中国で針灸を学んだ」と話されました。人体の絵を示して「どこが痛いの?」と問われて、私が人体の絵に痛い箇所を赤鉛筆で印を入れました。その時、先生が「自分は今、温灸に興味があって「モグサ」を求めて日本の教本を英訳して研究しているから温灸をして上げましょう!」と言われました。内心チョット不安がよぎったのですが針灸のツボ、経絡は同じだろうから温灸の方が気持ちも良いし、効果も大と決心して施療して貰いました。未だ初級段階で怖々されているのが伝わって、たまには艾の熱い燃えカスが体に落ちて来て「アチチチー!」なのですが、奥歯を食い縛って耐えました。先生の一生懸命が伝わって体が徐々に軽くなって来ました。ヤット終わった時は少し痛みが和らいだので「アー!良かった!」と胸を撫で下ろしました。
日本の針灸、温灸に関して質問されました。英国もコンピューターの発展等で若い人でも肩こり、目の疲れ、ストレス等で「温灸はマイルドに効果あり!」と評判で当時の英国では「針灸院」「マッサージ」等が静かなブームだと話されました。それから何回かお世話になって、スッカリ先生と打ち解けました。先生は「日本に温灸の勉強に行きたい!」と話されたので、その時は是非に連絡して下さい」とお互いに住所、電話、等の交換をしました。
私は海外に行く時、必ず最低の金額で海外保険を掛けて医療証明書の用紙を持参します。そうすれば医療に掛かった時に、直ちに医者に「治療証明書」を書いて貰えます。この時の医院は西洋医学の内科の看板が揚がっていました。帰国後、保険会社の手続きをしたら腰痛で1回分位の治療費が出ました(掛け金位)。
結婚している娘さんが、膝痛で女性専用の筋トレクラブに通っていました。週に数回、スポーティーな姿で赤ちゃんを実家に預けに来ていました。きっと「カーブス」だった思います。
その10数年後に日本で英国スコットランド出身の女性と知人になりました。その方も「カーブス」を体験されていました。数年前に「カーブス津田沼店」に短時間でしたが見学案内をしました。


【ご褒美のサンフランシスコ語学ステイ】
某英語学校に通い続けている英会話学校が「如何に英会話を学んだか?」と言うタイトルの体験談コンテスを募集していました。ふと「如何に失敗を恐れず恥を掻きながら楽しく学び続けたか」のタイトルで体験談を応募しました。忘れた頃に学校から思い掛けず「3万人の応募者の中かから(仏語、独語を含む)最終審査の200人に入った」なる葉書が届きました。ホテルの会場での発表で「特別賞」を頂きました。賞品は大きなトロフィー、楯と「海外航空クーポン券」でした。1年以内に使用する規定があったので急いで計画を立てました。


【2002年 サンフランシスコへ】
2002年は丁度、米国のテロ事件の翌年だったので飛行機代は半額に近い値段でした。最終的にサンフランシスコのステイに決めました。イヨイヨ旅立ちの日が来ました。以前に比べて空港は想像以上の厳戒体制で大勢の安全警備の巡査さんが見廻っている光景に「ここは日本なの?」って感じでした。荷物検査、身体検査も厳重でスゴク時間が掛かりました。ヤットコサットコ飛行機に搭乗する事が出来て離陸しました。安心して飛行機内で良く眠れたのはこの時が初めてでした。目が覚めると早朝で空港に学校の迎えの車が待っていてホットしました。車に長距離乗ってホストファミリーの家に到着しました。
ホストパパは温厚な人でママはフィリピン人で、働き者で、気さくな感じの人でした。海外では「嫁にするなら、働き者で、料理上手で、夫に尽くすフィリピ女性を!」と言われています。


【サンフランシスコのケーブルカー】
サンフランシスコと聞けば、急な坂道のケーブルカーが目に浮かびます。いざ行って見ると本当に坂道が多くて、ケーブルカーが急な坂道でいつ迄もストップしているのは度々、目にしました。街の風物詩とさえ言われています。今ではアメリカ最初の「動く固定歴史記念物」に指定されています。朝の通勤ラシュ時はガラスの無い窓や、デッキに人々が鈴なりに乗っていて若者達はスリルを楽しんでいる感がありました。日本とは異なり停車駅がシカッリと表示されないので自分が降りる駅の前後には気を付けないと降り損ないます。翌日は不安が的中しました。ケーブルカーの操作場の故障で授業第1日目から1時間近く遅刻してしまいました。次の日も用心して随分、早く家を出たのですが授業開始ギリギリに息せき切って教室に飛び込みました。これでは心身持たないと不安になり学生課に相談に行きました。今迄4回のステイで途中でホストファミリー変更の経験はないので迷いました。


【モンローレジデンスへの引越し!】
結局、学校への通学第一を考えて学校の真向いにあるSacramento通り近くのモンローResidenceに移る事にしました。当地へ到着して僅か到着4日目にして収めた荷物を夜遅く迄掛かって、余り吟味せずに無我夢中でトランクに詰め込みました。この粗雑な行動が後でラスベガスのホテルの大切で必要なホテルの「バウチャー券」を何処に入れたか意識にありませんでした。この事が後で慌てる大事件となるとは露ほども思いませんでした。皆さん「バウチャー券」は大切なホテルの日本からの予約支払い済みの唯一の証明書で非常に大切です。日本の旅行会社に500円もするFAXを送信したり、高い国際電話を
掛けても交換手との接続、時差の問題で中々、通じず大変な思いをしました。スマホ、携帯電話の可能な現代では考えられない経験でした!
翌日、早朝にタクシーで何とも言えない心細い気持ちでモンローレジデンスに移転しました。住人は50人位で殆どが語学学校の生徒で、日本人の同級生が2人いるのが分って安心しました。フロントに荷物を預けて、目の前の学校に登校5日目にして始めて授業時間に余裕をもって出席しました。「メデタシ!中途引っ越し!」の初体験でした。
食事は食堂で決められた時間内に朝夕、自由に食べます。夕食はメインディシュが個々に運ばれて来ます。他はビュツフェスタイルでした。毎日、受付の隅にメニューが張り出されます。人気メニューの日はメインディシュが直ぐに無くなりました。すると変わりのメニューになるので早くから食堂が一杯でした。お弁当も料金を別に払えばOKでした。あるジムでイントラクターをしている女性が毎日、茹で卵6個の黄味を全部、出して弁当にしていました。流石にスタイル満点で今、思い出を甦らせてみると「もしかして{カ-ブス}のインストラクターだったかな?」の様な気がします。私もシニアを重ねて彼女を思い出しつつ見習って時々、卵は白身だけを食しています!


【海外でのチップの効用(その2)】
レジデンスではシーツ類は1週間に1度交換してくれます。ある日、バスマットが新しいのに変えてなかったのでカウンターに頼みに行きました。若い女の子が直ぐに持って来ました。少しチップを渡すと又、直ぐにビニールの袋とタオルを余分に持って来ました。外国のチップの効用を体験した2回目の経験です。その後、米国滞在中は「僅かな事で快適に過ごせるならば!」と思って毎週、チップを渡しました。「郷に入っては剛に従え!」の気持ちの変化が生まれてきました。


【R先生】
1時間目の先生は、お相撲さんサイズの(先生、ゴメンナサイ!)グラマーなR先生でした。いつも早朝から学校に来てコピー室で色々と下準備しておられました。教室へは始業ベルより早く黒板の前にデーンと座って遅刻の生徒を眼鏡越しの4つの目でジロリと見られます。それが功を奏して遅刻が無くなりました。先生は短い休憩時間、ランチタイムも凄い食欲で「先生のあのエネルギー源はスゴイ食欲だな!あの重さかな?」と納得しました。 先生は若い頃、日本で5年位教鞭を取っておられました。休憩時間に先生が「富士山の頂上に登山成功したのヨ!」と言って富士山の頂上で写した写真を見せて下さいました。クラス6人の日本人生徒は誰1人として先生を見分けることが出来ませんでした(笑)。何と先生は今のサイズの半分位のスリムな姿で微笑んでおられました。先生は「日本食はヘルシーで良いですね!」とホルスタインの様な(ゴメンナサイ!)豊な胸をユサユサ揺すって豪快に笑われました。先生の度肝を抜くスケールの大きいキャラクターに引き込まれて必死に学びました。先生が小学生の一人息子さんの話をされる時にはトタンにメロメロママの顔になられて微笑ましいでした。先生は当地のカーブスに通っているとも話されました。その後、痩せられたでしょうか? 米国では実に良く肥った老若男女を見かけました!


【トウトウやって来た終了式】
最後の終了試験後、お別れパーティーがあり、記念撮影もあると思って「どんな服装が最適かな?」と思案して紺のロングスカートにデイゴの花柄の紺のブラウスを組み合わせました。バックには真珠のネックレスとイヤリングも忍ばせる念の入れようで登校しました。それに反して当時、全米でブームになっていた「フライデーカジュアルクローズデイ」=(週末金曜日 普段着日)とやらで、先生方は色褪せた洗いざらいのGーパン、アロハシャツ、ジャージ等の出で立ちに、何とも言えない生徒とのアンバランスに吹き出してしまいました!
筆記試験、リスニングテスト後、横綱先生が教室にヘッペ、ヘッぺ、と教室に小走りに入って来られて「テスト受験者全員、余りにリスニングが悪くて平均点が下がり過ぎるので採点は割愛します!」と最後迄、情熱的にプンプンとしながらリスニングの大切さを説かれました。短い個人面談があり、実に良く私の英語面の長所、短所、個性の特徴を捉らえての総評、英語勉強面のアドバイスも適切で頭が下りました。
ランチパーティーの後に修了式では、色々の特別賞の授与が始まり思い掛けなく私の名前が呼ばれ「Most Enthusiasm and Most Adventuresome Spirit」=(最も一生懸命勉強して、冒険心に満ちた生徒)の賞を頂いたのであります! 誰も行かなかった遠方の「ウィンチェスター・ミステリーハウス」=(ライフル銃の創始者の未亡人が預言者の進言で建て増しを何10年も続けた膨大な家でカルフォルニア州の史跡として国の歴史建造物)に1人で行って迷子になりました。帰宅が遅くなってレジデンスのスッタフや友人を「エミーはどうした?」と心配させる冒険もしました。授業は午前中だったので昼食もソコソコに学校を飛び出していました。スタンフォード大学、シリコンバレーに遠征見学を精力的に行い「あの頃は若かったなー!」 と懐かしく昨日の事の様に思い出します。一人遠征の自由さで帰宅が遅くなりがちでした。先生のコメントに「貴女はクラスの生徒として他の生徒の良き雛形(モデル)だったのは私の喜び!」と書いてありました。「外国人は褒め上手ですから大分、割り引いて捉えなくては」と思いますが身に余る有り難い言葉と表彰状を頂いたと感謝しています。
それにしても、サンフランシスコは何て坂道だらけなのでしょう! 早朝や霧の深い夜、外に出ると辺りの景色は印象派のモネーの絵の様に幻想的で美しいでした! サンフランシスコは「世界中で一番、住みたい国」のNO3に入っています。気候温暖で太陽一杯、果物、野菜が豊富で頷けるが気がします(坂道が多くて、きついですが...)。   

   
【レインボークラブって何?】
サンフランシスコに到着後、町並みのアパートの窓に美しい虹色のレインボーフラグが掲げてあるのを見掛け「あの旗は何だろう?」と思っていました。暫らくして「ゲイのシンボルの旗」だと解りました。その後、綺麗な本物の虹を見るとサンフランシスコを思い出します。


【サンフランシスコのゲイの歴史】
サンフランシスコのゲイ・コミュニィティーの歴史は第2次世界大戦後何千人もの同性愛者達を除名して、陸揚げ地点のサンフランシスコへ送還したのが始まり(男性、女性同性愛者を指す) 当地のゲイの人口は全人口の約7分の1(10万人)位と言われています。ニューヨーク、ロスアンゼルスの方がゲイは多いそうです。


【ゲイパワー全開の「ゲイパレード」】
1969年以来、毎年6月の最終日曜日に開催されています。「イベント・ゲイ・フリーダム・ディ・パレード」は大規模なパレードです。ゲイ達がゲイのシンボルのレインボーフラグを誇らしげに掲げて街中を色とりどりの紙テープで飾り付けたオープンカーでユックリと走り、その後ろを車に乗りきれないゲイグループが行進します。生まれて初めて見る不思議な光景に圧倒されました! 彼等を支援する人達で通りを警官が縄を張ったりして交通整理をしますが、大変な賑々しさの人混みとなります。この流れはゲイの多い州に浸透しつつあるそうです。夕方頃から町で見掛けるゲイのカップルは互いに見つめ合い、手に手を取ってそれは、それは熱々ムードでした!


【サンフランシスコのネイルサロン】
その頃の日本では 未だ「ネイルサロン」の店は余りなかったですが、サンフランシスコでは流行っていました。普通の美容院に隣接している店、テレフォンカード、バス券を置いている雑貨屋さんのホンの、ひと隅に3台位の美容椅子の店を何軒も見掛けました。土、日曜日の開店前には行列が出来る程です。手の爪だけでなく足の爪も一緒に手入れします。椅子に座って手入れを受けているお客さんが、気持ち良さそうに手足をダラリと美容師さんに安心して身を任せている様子がウインドー越しに見ると、自分もリラックスした気分になりました。
又、簡易マッサージ等は美容院の一隅、スーパーの一隅で首だけがパタンと倒れるのや、上半身を前の棒にもたれさせて人の手や短時間の機械の振動、移動でマッサージするのが流行っていました。これは美容院ついで、買物ついでに安価に短時間でリラクゼーション出来て合理的だと思いました。私はスパーマーケットの隅っこの小さい店、本式のマッサージをする大きい店も試しました。その店の一角に確かカーブス店があったと思い出します。                  

         
【米国のマッサージ】
マッサージの店の名前はサンフランシスコにある食堂の名前と同じ様な「KABUKI」=(歌舞伎)、「SAMURAI」=(侍)、「HUJIYAMA」=(富士山)等のありきたりの名前です。私は「古い日本のイメージばかりだな!」と苦笑しました。
マッサージの技術は日本の施療士の方が遥かに丁寧で器用で、キメ細やかな治療だなと思いました。設備やリネン関係の用品も日本の方が清潔で良いです。サンフランシスコの至る所の急な坂道の上り下りで負担が掛かった足腰の疲れ、痛みが少しは緩和されました。


【モンローレジデンス周辺(米国の日々の安全・その2)】
モンローレジデンスはダウンタウンに近い所でした。私が在学していたELS校は道を挟んで真向かいでした。サクラメント通りも直ぐで少し歩くとジャパンタウンも近くでした。
日本食もうどん(関西風薄味)、納豆、和菓子(大福餅、最中等)、惣菜ではキンピラ牛蒡まであってビックリ仰天、味はイマイチかな?
お寺、神社もチャチながらあって、七五三も祝います。着物姿の日本人を見た時は嬉しく誇らしくさえ思いました。資生堂の化粧品店は行列の繁盛振りでした。本の紀伊国屋があり、日本の新聞も日にち遅れながら売っています。今では百円ショップ(1ドル)も何軒もあると聞きます。チャイナタウンへ行くケーブルカーの駅も近く市内の人口は最大で中国語が飛び交い「此処は米国なの?」と思いました!
レジデンスの近くには大きな銀行があって便利でした。間口は広くて正面の入り口に入るには8段くらいの階段がありました。階段の両側にATMが2台ずつ設置されていました。ある夕方、1人で銀行に行くと数人のホームレスが階段の両側に分かれてATMの近くに雛壇の、お雛様の様に座っていました。「コワーイ!」と思って機器を使わずに急いで帰宅しました。以後、銀行に行く時は必ず学校の昼休み時間に友人と行く事にしました。


【サンフランシスコのホームレス(米国での日々の安全 その3)】
日本と違って、大きな地下鉄の駅の地上の入り口の前、大きなバス停の乗り換え場所等、人目に付く場所にたむろしていました「大らかな国柄だなー!」と言う感じでした。悪びれた様子もなく明るく衣服も余り薄汚くなくて「何故、此処にたむろしているの?」と言う感じでした。流石にレディーファーストのお国柄か? BAGLADY(女浮浪者)は余り見掛けませんでした。物乞いする訳でもなく、朝、通学時に顔が合うと「GOOD MORNING!」と声を掛けてきます。学校では「絶対に反応しないように!足早に立ち去るように!」と注意されていました。夜になると色々な危険な事件が発生するそうです。
駅の登り出口付近を通る時には学校の注意を固くまもっていました。この事は日本人に取って米国での安全な日々の貴重な体験でした。


【ダウンタウンのトイレ事情 海外での安全な日々 その4】
テロ事件の翌年で街中に警官を見かけました。米国は銃社会ですから「如何に公衆トイレを安全な環境に保つか!」が街中の安全に繋がる最大のスローガンです。駅のトイレを使用する時、駅員さんにトイレのカギを借りて、床下30センチ位空いているドアを閉めて入ります。その前に警官が立って待っているのです。余りの物々しさに身の縮む思いがしました。
 街並みには公衆トイレは皆無に近く「この辺りにトイレはありますか?」と聞くと街中の「マグドナルド店」等の飲食店でのみ使用可能でした。私達はチャントお茶を飲んだ後にトイレのカギを借りて、チップも払ってヤット「助かったー!」と言った状況でした。「日本は何て安全な国なんだろう!」と実感した米国のトイレ事情の思い出です。 日本では考えられない本当に困った実体験でした!


【リーヴァイスのジーンズ】
リーヴァイス社はカルフォルニアのゴールドラッシュで大儲けして一躍、ブランド企業に瞬く間に成長した会社です。リーヴァイスは小間物店からスタートしました。細々と裁縫用の糸、ボタン、ジッパー等を売って生計を立てていました。
ゴールドラッシュ時(1848~1855)に作業着のジーンズは金の採集の重労働の為にスッテチが直ぐに解れていました。そこに着眼してジーンズのスッテチを太い丈夫な糸で2本のにしたり、作業道具を入れるポケットを大き目にして丈夫なビス状の金属製の丸いハト目を考案しました。このビスで止めての「丈夫さ第一!」を売り物にしました。丸いハト目は丈夫さのみでなく丸型が斬新と言われて人気が出ました。又、ジーンズのより穿きやすい裁断、デザイン等もハト目と共に改善して作業用のみならずカッコイイ! と評判になり爆発的に売れました。米国のカジュアルフアッションの王様と言われ老若男女の大人から子供達にまで根強い人気に繋がっています。
私は2歳位の子供のサイズから大関「小錦」も穿ける様な超ビッグサイズの多種のジーンズが陳列してあるのを見たのは生まれて初めてで、ファッションのカルチャーショックを受けました。
当時の日本ではあんなに股下の長い、横幅の広い超ビッグサイズや特に2歳位の小さなGパンは売っていませでした。その頃の米国は「肥満と成人病で悩める国」でした。米国人は「家族中で季節を問わず、家庭でも、登校にも、作業時も、お出掛けにも、Gパンを履くんやなー!」とサイズの違う家族全員で歩くバックスタイル姿を感心して眺めていました。米国の主要都市のリーヴァイス店は立地条件が恵まれています。店の豪華な看板のリーヴァイスの商標が人目を引きます。店は強気で余りバーゲンセール無しでも、高い値段でも、常に客で溢れていました。チョットしたアイディア、発想の転換、開拓精神が発展のキーポイントになって大成功した良き米国の雛形です!
(注)「サンフランシスコ49ers」
この名のアメフトチームがあります。ゴールドラッシュ時の1849に金の採掘者が最も多い年に因んで命名、本拠地は元カルフォルニアの「サンタクララ」の地名のスタジアムでした。「リーヴァイス・スタジアム」と命名するのに2014年に2億2千万円で20年の契約を結びました。アメフトは米国で人気の高いスポーツなので其の宣伝効果は絶大で景気の浮き沈みを乗り越えて創立から165年、不動の人気商品です。世界に470店の直営店があります。


【海外で上手く暮らすには?(急遽の引越しで学んだ事)】
全ての海外での語学ステイの大事な生活術の心得の3つの項目です。
1ー「YES」&「NO」をハッキリ表現する。
2-自分の意志、考えをシッカリと伝える(拙くても話す)
(日本の忖度、暗黙の了解、阿吽の呼吸は英語辞書にはない)
3-自分自身の自立(全てのサービスは日本程、良くないと心得て自分自身、持ち物等の安全、管理が重要)。


【文章のフィナーレ】
 日本のカーブスに通って6年目、850回を超えゴールドカードを手にしました。何だか偉くなった様な誇らしい気持ちです! 会員に成る迄に3年掛かりでしたが、カーブスとの赤い糸を辿れば「18年も以前だなー!」と感無量です!
2005年にカーブスが日本上陸してから12年目だそうです。全国のJR線、私鉄線の殆どの主要停車駅の教室と言われる位の1800店以上、80万人以上の会員と聞きます。会員の平均年齢は60歳以上、世界第1位の長寿国の日本の女性に適した筋トレクラブだと思います。
会員の最高年齢100歳の方の文章を会報で読んで感動しました。「私もガンバラなアカンワー!後に続きたいもの!」と勇気を頂きました。足腰が痛い時、シンドイ時、歳ヤナー! と感じる時もありますが、無理せずに細く長く通い続けたいと切に願ってペンを置きます。津田沼店のインストラクターの皆様、宜しくお願い致します! 
会員の皆様、お互いにガンバリましょうね!
Practice  Makes Parfect!
カーブス! バンザーイ