今日もカーブスに行って来よう
目覚めるとそう思う。
気持ちの張りがない時も行こうと思うと自然に行動が先に立ち家事もサッサと終って身支度をして家を出る。歩いて十五分、体も溫まり一息つきながら先に着いた仲間と賑やかにおしゃべりをして十時にワークアウト。
 カーブスに通って九年、最初は私より15、6才若い人達の誘いがあり歩いて十五分位の所なのでここなら続けられるかなと思い入会し今に至っている。
 自分の性格は人前に出て何かやるのは好きじゃないから二十人の(当時は)輪の中に正面向いているのが恥ずかしかったがこの年になって何事も自然体で生きてゆけば良いのではと自分に言い聞かせて除々に向きあえる様になった。
 入会して二年目あの東日本大震災が起きた。
幸い我が家は内陸の高台にあったので、津波も来ず少々の壊れ物や倒れたりした物もあったが被害は僅かだった。
 あの日、孫の中学校の卒業式があって娘の婚家先に夫と行っていたので留守にしていた二日後、おにぎりやお茶等頂いて娘夫婦に送られて来て家の中の後片付けをして貰ったので助かった。電気、ガス、水道等ライフラインも一週間位で復活し何とか日常が戻った。スーパーも店外から店内に戻って買物が出来る様になった。
 しかしスーパーの一隅にあったカーブスは再開しない。一ヶ月程してようやく再開された。
 しかし顔染みの方達も見える様になったのに閖上浜の方から来ていた人達が見えない。その中に親しい知人のEさんが見えないので聞いてみると津波に流されて亡くなっていた。お母さんとの二人暮しだったが、前年お母さんを亡くされて、独りで生活していたEさんなので遺骨はお寺に預けられていることを知りお寺を尋ねて御冥福をお祈りして来た。
 又、我が実家の母も足かけ五年。姉妹で常磐線で介護に通っていたがその線路も流され通えなくなり母は妹の家で一ケ月後亡くなった
 夫との生活も六十年が過ぎ三人の子もそれぞれ家を出て孫や曾孫にも恵まれて二人の生活に満足していた。夫は短歌の趣味があり歌集を作ったり、又毎朝の散歩は365日欠かさずしていて姿勢正しく速足で歩くので近所の人達に「百才迄も長生き出来るよ」と言われていたが二、三年前頃からだんだん衰えて来て介護士のお世話になる様になった。一昨年の秋、あの夏の暑さがようやく遠のいてホッとした頃今度は私が介護疲れとストレスで急性胃腸炎になり入院した。
それで夫は施設にお願いする様になった。
一ヶ月余りの闘病生活で体重は5、6キロ減り筋肉もすっかり落ちてしまった。夫を施設に預けながらも食べられる様になりカーブスにも通える様になると体力も正常に戻りつつあった。そんな時夫が亡くなってしまった。悲しみと忙しさで何が何だか頭の整理がつかなかった。
 あれから一年独り暮しの生活も慣れて来てカーブスが生活の一部になり心も体も元通りになって来た。
この冬の大雪に悩まされたが近所の人の雪かきに助けられ又カーブス通いは二本のストックで雪や凍り道を長靴はいて歩いて負けずに通った。それを見ていたカーブス仲間は危ないからと車で送って貰うことも度々あった。
 先日の平昌オリンピックに仙台出身の羽生結弦選手の金メダル二連覇がかかっていたのでカーブス仲間は応援した新聞の切り抜きを持ち寄って盛り上った。皆でおでんパーティをして楽しく応援して金も取れて喜んだ。
こうしてカーブスに行って心も体もすっきり元気で帰って来るので、私には何かよいホルモンが出ているせいか、この九年間風邪が遠のいている(カーブスに行ってない時は毎年高熱が出て一週間は寝ていたのだから)
 月初めの体力測定は実年令より若いと言われ又常にコーチは筋肉の話をされるのでそれに欠かせないのが食事なので、足りない時には、帰りはすぐこのスーパーで買物が出来るので一石三鳥の気分で通っている。
この事は私の生きる上での最大の活力と幸せをもたらしてくれているのでほんとうに有難く感謝している。