私は、21歳の時地元で保健師をしていました。忙しいけれど充実した生活を送っていました。生活が一変したのは29歳のとき、「うつ病」になり、以来ほぼ寝たきりの生活を余儀なくされました。
 うつ病の原因は、夫が突然亡くなったことです。20歳の時からおつきあいをして、結婚して6年、子供には恵まれませんでしたが、だからこそ私たちの結びつきは固く、趣味も一緒にテニスをして、仕事の時間以外はずっと一緒にいて、楽しく暮らしていました。彼は私の青春そのもの、このまま一緒に年齢を重ね、ともに白髪になるまで一緒にいられると思っていました。
 冷たくなった夫の傍らに座って、弔問の方々に礼をしていたことは覚えていますが、その後のことは今でも記憶が断片的で、脳に穴が開いたように感じます。私は医療従事者なのに、なぜ前兆に気づいてあげられなかったのか、自分を責めて責めて暮らしていました。体重が15キロ落ちて、体力も奪われました。「最愛の人を助けられなかった私には、人を助けることはできない」と思い詰め、制服に袖を通せなくなりました。同僚と話をするのも難しく、職場を長期に休まざるを得なくなりました。休んだ後は、しばらくは仕事ができるのですが、気力・体力がないため疲れがたまってまた長期に休む、の繰り返しをしていました。集中力がないので本も読めない、「事実は小説より奇なり」と思ってしまい落ち込みの原因になるからドラマも見られない、新聞は事件やお弔いの記事で悲しくなるのでとらない、物事を順序立てて考えられないので、料理をはじめ家事全般ができない、と、できないことがどんどん増えていき、食事は実家の世話になりながら、アパートにこもりっきりの生活でした。
 夫の死亡保険のお金が悲しくて、「ぱっと使って忘れてしまおう」と、アパートにこもっていたと思えばエステサロンに行って高額のコースをいくつも購入、またデパートに行っては高い服やバック、果ては貴金属まで買っては、箱もあけない「買い物依存」に陥りました。お金を使っても使っても満たされない、悲しくなるだけだというのに・・・・・・。
 そのころ、夫が亡くなってからずっと見守り励ましてくれた男性と、32歳で再婚しました。家族ができた喜びが力となり、再婚当初は家事ができていましたが、体力がないので、すぐ寝たきり状態に戻り、「仕事が忙しい夫を支えることもできない」と自分を責めました。職場も再婚相手の住む町に転勤になり、保健師が無理なら、と事務仕事に配置換えになったのですが、慣れない仕事に適応できず長い病気欠勤を繰り返して、買い物依存も復活、自分で自分に呆れる毎日でした。不妊治療も再開しましたがなかなか子供に恵まれず、暗い気持ちでいっぱいでした。36歳で子供を授かった時は最高にうれしかった。しかし新たな試練が待っていました。体力がない、持久力もない、頭もはたらかない、妊娠中はひどいつわりに苦しみ、出産後はますます具合が悪く、体力的につらい育児が待っていました。授乳期にはもともと56キロあった体重が43キロまで落ちて、ますます体力が落ちてしまいました。夫は仕事が忙しく育児や家事を分担できません。この際子供を育てることに専念しようと思い、思い切って仕事をやめました。すると強い喪失感にさいなまれ、子供が卒乳したとたん、自殺しそうになって入院しました。それからは子供が中学校に上がるまで、入退院を四回繰り返し、体重が40キロ以上増えてしまいました。家で寝ているばかりの生活で、「わたしはこんなに太って、家のことも満足にできずに、頭も呆けて、いつか足が萎えて寝たきりになって家族に迷惑をかけ続けて死んでいくんだ」と思っていました。
 その頃、家でたまたまつけたテレビで、カーブスの番組を見たのです。「いいなあ、これなら私もできそう」と思いました。夫の母が、車で往復2時間もかけてカーブスに通っているのを知り、行きたいなと思いましたが、往復2時間は、私には体力的に無理だとあきらめてしまいました。
 ある日、ひどくだるさがあり、めまい、頭痛に襲われ、ちょうど薬がきれていましたので「入院させてもらおう」と思い、タクシーで四十分の主治医の病院に行き、診察に臨むと、いつもは入院させてくれる先生が、「薬を変えておくので帰ってこれで様子を見て」とおっしゃるのです。困りました。どうやって帰ろう。最後の手段で、82歳の父母に連絡し、父の運転する車で、実家に身を寄せることになりました。父には普段から、高齢の夫婦の暮らしで私の面倒はもう見られないので、どうしてもどうしても困ったときだけ連絡してきなさい、と言われていたので、本当に最後の手段だったのです。人に甘えてばかりではいけない、何としても元気にならないといけない、と母と話していた時、2人が同時に「カーブス!」と言葉を発したのです。近くに新しいカーブスができていて、そのカーブス高知神田は、片道40分で行ける。とにかく連絡してみよう。早速、電話で体験を申し込みました。自動ドアが開くと、「来てくれてありがとうございます。お待ちしていました!」とコーチの明るい声に迎えられました。「なんと明るいところだろう、皆さんにこにこして、運動している。キラキラしてる。」いっぺんで気持ちが明るくなりました。すぐに入会し、車で高速道路も使いながら、往復80分かけて通い始めました。お金はいっぱいかかるけれど、元気になるための出費は許してもらおう、と思いました。それからは、週に3回通うことにし、はじめはゆっくりしか動かせなかったマシンが少しは早く動かせるようになり、ストレッチで体が柔らかくなっていく、化粧してウエアもおしゃれに、とできることがどんどん増えてきました。うれしくて、毎日幸せ、と思えるようになりました。料理も簡単なものならできるようになり、家事も少しずつできるようになってきました。
 あの時医師の先生に突き放されたおかげで、一歩前進することができ、カーブスのコーチがどんどん褒めてくれるおかげで自分に自信が持てるようになりました。「淳美さんこんにちは、今日も来れましたね!」の声が聞きたくてカーブスに通って、1年経ったころ、100回Tシャツをいただきました。病気になってから何かを成しとげたことなどなかったので、100回を達成した喜びに、思わず泣いてしまいました。コーチも泣いてくれました。本当にカーブスのコーチは温かい、病気のことも、生活のしづらさも、吹き飛んでしまうようです。主治医の先生も「カーブスに行き始めて本当に元気になった」と喜んでくださいます。入会して2年経った頃、今のカーブス土佐ショッピングセンターができて、家から車で30分で行けるので、こちらに移りました。どこのカーブスでも、コーチは明るく、少しの変化も見逃さず、声をかけてくれます。ありがたいことです。気持ちや日常生活の変化だけでなく、体重も三キロ減って、体幹に筋肉がついて、姿勢もよくなりました。何より体力がつきました。
 障がいを持っていることに変わりはないし、薬も一生飲まなければいけませんが、体と心共に元気になりました。これからもコーチや会員の皆さんと共にあることを忘れずに、生きていきたいと思います。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。