カーブスをはじめて十年!
振り返ってみるといろんな事がありました。生活はすっかり変わりましたが、カーブスのおかげでからだの中味は今も元気そのもの。現在、週二回の卓球と月二回のコーラス、その他に史談会のウォーキングに生き甲斐を感じて、日々生活していることを深く感謝しています。
 私がカーブスに入会したのは、今から十年前。入会にこれといった理由はありませんでした。たまたま家から歩いて五分の所にカーブスができた、ということだけでした。
月水金の十時に行く、という日程を立てて通いはじめました。まもなく、気がねなく話せそうな四人組ができあがりました。そのうちに誰からともなく「ランチしませんか?」と提案があり、駅近のレストランに。
 それからの四人は急接近。カーブスに行かれない時は、誰かしらに電話をしないと休めなくなりました。どこか具合が悪いのか、と心配をかけるからです。
 すでに主人は透析がはじまっていましたが、月水金の日程は主人の通院にあわせていましたから、なんの支障もなく私のカーブス通いは続いていました。
 平成二十三年八月、第一の試練が私を襲いました。
 十五年透析を続けてきた主人の容態が急変、亡くなったのです。
ヘルパーさんにお世話になることを良しとしなかった主人は、私の卓球を週一回とし、あとは私がつきそうよう要求しました。大学時代に私が勝手に好きになった相手ですから、私も承諾、十五年になろうとする私の介護生活が続いていたのです。
 はじめの十年こそ、元気に週三回の透析に通い、土日には国内の一泊旅行を楽しんでいましたが、十年を過ぎる頃から入退院の回数が多くなっていきました。
 そんな生活の中でも私は、カーブスだけは休まずに通っていました。当時の私のストレスを解消してくれたのは、カーブスのあとの四人での食事中だけでしたから。
 主人が亡くなって十日程たった頃、カーブスの三人が大きな花たばを抱えて訪ねてきてくれました。そして、「諸々のことがおわったら、できるだけ早くカーブスに出てくるように」。と元気づけてくれました。昼間こそ来客の応対で気丈にしていた私も、夜はタオルなしでは眠れませんでした。
 主人の生まれ故郷は山梨の南アルプスのふもと。すでに両親も家も残ってはいませんが、私は山梨でも葬儀をする-と決めていました。主人がほんとうに心安らかに眠れるのは、両親の眠るふるさとの山々に見守られている丘の上の墓地しかない、と信じていたからです。
 松戸と山梨での葬儀がおわり、身辺が落ちついた時、たしかにひとりになったことを実感。辛くて寂しくて毎晩涙していました。
「元気をとりもどそう。」と決意したのは、カーブスに行けばあの三人に会えるという想いがあったからです。
 辛い時に待っていてくれる友がいる。支えてくれる友がいる。それがどんなにありがたいことか、この時しみじみ知りました。
 主人が亡くなった翌年、次の試練が私を待っていました。
 十五年間の主人の介護の間、自分自身のからだを心配するゆとりはまったくなかったので、健康診断というものを一度も受けていなかったのです。周りから強く勧められ、ようやく受ける気になった私はびっくり仰天!信じられない結果となっていたのです。
 胃に悪性腫瘍が複数見えるので、大きい病院へ行くことを勧めるというのです。そこですぐに大病院へ。担当の先生は、「この腫瘍はガンに移行するので、すぐに薬と放射線治療をはじめましょう。そうすれば心配はいりません。」
 ホッとはしましたが、辛かったのは放射線治療でした。設備のある病院までは小―時間かかります。七時半に家を出て、八時半に到着。放射線を受けるのはほんの十五分程ですが、朝食ぬきで一ヶ月これを続けるのは大変なことでした。
 なんと、この一ヶ月間も私がカーブスを休むことはありませんでした。朝食ぬきでも、放射線を受けると吐き気があり、カーブスへ行ってもマシンをする元気はありません。脇で見学しながら、みんなのおわるのを待っていたのです。
 「今日は何を食べる?」三人が私に聞いてくれます。食欲がなくても、四人でおしゃべりしながら食べるとなんとか食べることができました。
 この時も、私は自分を心配してくれる友のありがたさを身にしみて実感!
 私はひとりではない。カーブス十年の友がいることをなんとありがたいと思ったことか。
 このカーブスの三人の友には、いつも助けてもらうばかりで私にはお礼などできていません。八十才を迎えた今年、別れがいつくるかという覚悟だけはできているつもりですが、その日がくるまでいつも通りにカーブスに通い、「おはよう」と元気に出会い、いつも通りに「今日は何を食べる?」という会話を続けていきたいと思っています。
 そうすることが、これまでの私の感謝の想いのすべてと思い、今日も元気にカーブスに通います。