「まだ続けているの?」スーパーで買物をしていた時、背後から声をかけられました。かつてカーブスで顔を合わせ、挨拶したり、おしゃべりした事のある方でした。彼女は今のカーブスの場所が自宅から遠くなり、自転車での通いが無理になったとの理由で、カーブスをやめたのだと記憶してます。
私の通う相馬市のカーブスは、東日本大震災(2011)後1年すぎて開設し、今年で13年になります。その間相馬市は水害、二度の地震で被害を受け、カーブスの場所は三度も移転したのです。実は私も東日本大震災による原発事故で、六度目の避難先の、相馬市の借上住宅に落ち着いた時、新聞折込みでカーブスが開設する事を知り入会したのです。
カーブス同様、私もこの地で三度も災害に会い、三度も住所が変わりましたが、それでも車で通えるのだからと、自転車や徒歩で通っていた方の事を思い、運転出来るうちだけでもと、月、水、金の週3回はどんなことがあっても通うと決め13年通ってます。
入会の動機は、大震災の避難先の体育舘で要介護3の義母(夫の母)の世話がとても大変だったからです。夫は孫の両親の形見のシーズー犬と車の中での生活でしたから、私が義母の世話に四苦八苦している事など知らなかったでしょう。イスもテーブルもない避難所で『自分で床から立ちあがって、トイレまで自分の足で歩ける』という基本が無理で、また避難所生活をする事になった場合、夫や孫に迷惑はかけられないという一心でした。
孫というのは、震災前、娘夫婦を相次ぐ事故で亡くし、当時小学校に入ったばかりの男の孫と愛犬を引き取り養育していたのです。この14年の間、義母、愛犬、夫を亡くし、孫も就職で巣立って行き、私はたった1人になってしまいました。夫の葬儀で喪主を務めた長男が、葬場で友人や知人達から「お母さんは元気があるからいいね」と声をかけてもらったらしいです。「カーブスだけは続けてね」と言い残して、県外の職場に帰って行きました。
カーブスに行かない火、木は、通院や公民舘の教室に通ったり、同じ町から避難してきた人達との集会で情報交換の日と決めております。相馬カーブスのコーチ達は、自分も被害にあいながらも、カーブスで笑顔で指導してくださり、私共に接してくれます。
私も今年で83歳。車の免許返納も考えている時期ですが、運転には細心の注意を払い、もう少し頑張って通いたいと考えてます。カーブスに通い続けている幸せを実感してます。