「お姉ちゃん有難う、皆さんも元気でね」それが6歳下の妹の最後の言葉でした。難病の93歳の父が亡くなり、相続の為の判子を押してくれた義弟が心筋梗塞で急死し、神奈川県川崎市の家に駆けつけた時、そこで見た妹は、長い白髪の頭白、豚の様な膨らんだ物体がドテラを着て横たわっている...。オムツの為膨らんだ下半身、1回かんだ毎捨てているティッシュと洗濯物の山、つけっぱなしのテレビが大音量で流れて...。
「パパーッ、パパーッ、何拠に行ったの?冷たくなっちゃったね」そんな妹を2晩抱いて寝、義弟の葬儀の手配・妹を病院へ急ぎ連れて行き診断書、介護認定、事業所捜してデイサービス通所とヘルパー派遣まで何とかこぎつけました。それでも新幹線で何度か通い、ゴミ屋敷の片付け、妹の世話を妹夫婦の一人息子と共に頑張りました。年が明け、妹の衣類の整理をして1泊、前の晩のタラ汁で作ったおじやが美味しいとお代わりしてくれましたが...。その2ヵ月後、誤えん性肺炎で急死しました。(喉の筋肉も弱っていたのですね)愛する夫が呼んだのか、一人息子にこれ以上世話をかけたくなかったのか...?
クモ膜下出血で手術した母の病院通い、介護で離れた事をこの時程有難いと思った事はありません。夫・妹夫婦の死を知る事がなかったから...。
「じんつぁん、相変わらず怒ってっかぁ?Kにリンゴ送ってくれなぁ、楽しみにしてるから」面会に行く度母は言います。妹の不登校をあんなに悩み、北上川への入水自殺も考えたのに...。すぐ下の妹が早くに亡くなり、両親は残った妹の方を溺愛したように思います。私の方はつき放して育てた?
18歳の時、夜汽車に乗って上京しました。(まさかそれから20年暮らすとは)仙台以南の進学は許さないという両親の反対を押し切り、新聞社に手紙を書き、新聞奨学生となりました。(全国から12~13名の女子一期生が、今はもうない代々木オリッンピックセンターで運動やら研修を受け、各専売所に配属になりました)そこで共に働く今の夫と結婚、2人の娘を授かり、商売を続け、38歳で岩手に戻りました。東京ではバブルがはじけ両親は年老いてきて農業も辛そう、夫も過労死の一歩手前、長女の高校入試直前で、今だと帰郷しました。戻り直ぐ、町のガン検診でガンが見つかり手術したので、本当に命拾いしたので、良かったと感謝です。
頭でばかり考え、悩み動かなかった妹と反対に私は即行動するタイプです。イオンにカーブスが出来た時、早速体験入学しましたが、あなたの夢はと聞かれたり、どうも漠然としていてピンときていませんでした。そのうち中国語の勉強で中国へ行ったり、福祉の研修でデンマークの大学やヨーロッパへ、並行して会計の勉強等もあったので大忙しでした。
加えて私にはとても大好きな物があり、唄と踊りが三度の飯より好き!大学時代の新体操に始まり娘と共にクラッシックバレエ(ママ友とトゥシューズ履いて"ゆうぽーと"の舞台に立った)、岩手では余興踊り(遠野まぬけ節・前沢牛音頭etc.)、日本舞踊や、フラダンスフラメンコは習って18年経ち、コロナ前までは、各デイサービスへ慰問に行き、お年寄り達を喜ばせていました。
ですがギックリ腰・外反母趾をきっかけに、ついには変形性膝関節症になり、正座出来ず、歩く事さえもできなくなり痛みで眠れなくなりました。
「年でなったんだから治るっつう事はねぇよ」心もとない整形医の言葉、介護うつも重なり、カーテンを閉め寝たまま、今が何日で何時か分からないまま手にとったのがカーブスの資料でした。ヒアルロン酸注射を左に8本、右膝に9本打ち、痛み止めの薬も飲みながらまずは2周ずつ、足ぶみも無理せずゆっくり、コーチの皆さんの笑顔やマスク越しの仲間との会話も救いでした。プロティンもせっせと飲み、膝も伸び、お皿の痛みもなくなり2周回れるようになりました。
お陰様で、また両親の介護や、川崎へ行き妹の世話も出来ました。まだ階段の上り降りも辛く、正座も出来ません。寒かったり、朝の農作業で肩こりが辛い時は、コーチと相談し、1周だけとか、肩を上げる運動はしないとか、とにかく無理はせず、続ける、続ける...。生きたくても生きれなかった妹、一人息子を残し、63歳の生涯を閉じた彼女は、どんなに無念だったか...。
私は今、妹の分も生きている。素敵な洋服も買う(それでもケチ美の私、バーゲンやリサイクルショップが多いが)、美味しい物も沢山食べる(もちろん割引チケットやポイ活で...そういえば妹夫婦はカップ麺ばかりで栄養をとってなかったナ)
さあ、カーブスが始まる時間です。皆さん列に並んで待っている...、Kちゃん、今日も一緒に筋トレしよう!!