カーブスへ通い始めて10年が過ぎた。何も考えずコーチの声が耳に響く淡々
とした日々だった。そんな日、壁に貼っていた"カーブスが生まれた理由"を読んだ。
改めて知ったこと。日本に上陸して今年で15年になること、日本全国で約2000店舗がオープンして85万人ものメンバーがいること、世界では約80カ国で展開されていると言うことなど。何よりも、わずか13歳の少年が母の死をきっかけに試行錯誤しながらカーブスを立ち上げるなんて、想像を絶する。
私が13歳のころ、小さな田舎町で両親と弟妹の5人暮らしだった。戦時中、父は極寒のシベリアに4年間抑留されていた。日本に引き揚げてから肺結核に侵された。温暖な気候と、当時はなかなか手に入れるのが難しかったバターや卵などの高たんぱくの食材を何とか手に入れて完治することができた。
当時、看護師だった母の看護を傍らで見ていた私は、母のような患者さんに寄り添う看護師になりたいと思った。むろんゲイリーのような強い意志があったわけでもない。「医者だけでは人は救えない」との言葉すら思いつかなかった。看護師になりたい、と言うと私の周りの人達は大反対だった。叔母が母に言った。「この子にあんな汚い仕事をさせるのか」
「この子の思いどおりにさせてやりたい」と母だけが肩を持ってくれた。だが私には強い言葉でこう言った。「白衣や、ナースキャップに憧れてなりたいのなら今すぐ、やめておきなさい!看護の仕事はそんなに甘くないから」
私が看護学生の頃、17歳の妹が交通事故で亡くなった。即死だった。私は泣きながら冷たくなった妹の体に看護学校で習ったとおりの「死後の処置」を施した。母は声を上げて何日も何日も何カ月も泣いた。そしてついには声が出なくなった。声を取り戻すまで数年かかった。
それから、私は夢だった看護師になった。そのことを待っていたようにあんなに元気だった母が次々と病魔に侵された。何度も身体にメスを入れざるをえなかった。そのたびに手術してもらうから大丈夫だよ、といつも前向きで笑っている強い人だった。我慢強くておおらかな母。妹の死を頑張って乗り越えた母。
今、思う。私にもっと知識があれば、寝たきりになったままで母を逝かせないですんだのに。そしてカーブスの存在。いつか小さな田舎町にもカーブスが開業してほしい。
私は病と闘っていた母の年齢になったけれど元気でカーブスに通っている。「ゲイリーの想い」を確かに受け取り一人でも多くの人につなげたいと思う。
故郷の空は限りなく青くて山々はもう春近い装いを始めた。
佳作
「「ゲイリーの想い」を受け取る」
カーブスって
どんな運動?