母が亡くなって、もうすぐ1年が経ちます。母は、気管支炎を患って81歳で亡くなりました。若いころから電気関係のコードを作る仕事をしていました。ずっと左脚を使い、固いコードに螺旋を巻く作業をしていたため、退職するころには変形性膝関節症でずいぶん苦労していました。後ろからみてもO脚でしたし、無理によい姿勢を保とうとするので、腰に負担もかかっているようでした。会うたびに、足が痛い、腰が痛いと不調を言っていました。病院には定期的に行っていて、薬もたくさんもらっていましたが、一向に回復の兆しはありませんでした。そのため、母は、変形性膝関節症は治らない、と頑なに言っていました。

 ある日、私は、カーブス通信を読んでいて、同じような症状の80代の方が、元気にカーブスでトレーニングをしている様子を知りました。早速、母に、記事を見せたのですが、かれこれ30年も治らない、と信じていた心は、簡単には揺るぎませんでした。そんな時に、心の支えになってくれたのが、カーブスのコーチたちでした。
 月初めの測定のときに、コーチは必ず「えみこさん、どなたかカーブスのことを紹介したい方はいますか?」と聞いてくださいます。「お母さん」と迷わずに答えると、「前川さんですね」と会ったことのない母の名前を間違うことなく言ってくれるのです。コーチは4名いるのですが、どなたも、母の名字を知っていてくれたことが、どれほど私の喜びになったことでしょう。「しっかり、母に伝えます」と使命感のようなものが自ずと生まれました。お料理が好きな母にたくさんのレシピと、カーブス通信を抱えて、私はその足で母のもとに向かいました。
 「ただいま。お母さん、レシピもらってきたよ」
 「ありがとう」
 「コーチがね、前川さんに会ってみたいな、って言っていたよ」
 「そうねえ...行かなくても大丈夫です」
といつも母は、思わせぶりなセリフの後にお断りの言葉を言いました。そんなやりとりがかれこれ2年続きました。
 それでも、2年の間に少しずつですが変化は起こっていました。母は1人暮らしをしていました。以前は大好きなごはんやうどんをよく食べていたのですが、その日は、大きな鶏肉を蒸して、丁寧に手でほぐしていました。横には、お醤油や酢、油で作ったタレと刻んだネギやショウガなど薬味が添えてありました。お豆腐や納豆もあってあきらかにタンパク質を気にしている食卓でした。牛乳が苦手なので豆乳を飲んでいる母を見て、私は「やったあ」と思いました。カーブスには来てくれなくても、その精神は伝わっているのだな、と実感しました。
 「痛いからといって動かないともっと痛くなっちゃうよ」と言いながら、カーブスからもらった自宅でできるストレッチのリーフレットも渡しました。無理をしないで、自分でできる範囲の運動をしていたようで、段差で躓くことはあっても、骨折したり入院したりするといった大きなけがをすることもありませんでした。

 母の遺品を整理していたら、段ボールの箱に私が母にあげたカーブスレシピが何十枚も綴られてありました。カーブス通信も同じようにありました。私が、「ここは大事だよ」とつけた付箋もそのまま剥がすことなく、渡したときのまま残っていました。ストレッチのリーフレットは何度も見直したようで、紙についたしわが多くありました。どれもこれもコーチが「前川さんにもどうぞ」とくださったものです。たくさんの贈り物を目の前に、私は、自分がカーブスに通っていることは、こんな風にお母さんを幸せにできたのだ、と思いました。

 本当は、母と一緒にトレーニングをしてみたかったけれど、それはもう叶うことはありません。今、私にできることは、母からもらったこの体をいつまでも健康で美しい状態で保つことです。健康はお金では買えません。体をつくる、ということは、心をつくる、ことだと思います。心が元気だと体も元気になり、毎日が楽しくなります。

 人生百年時代と言われています。お金があっても脚、腰、体全体が丈夫でないと幸せな日常生活が送れません。たった30分で健康を手に入れられるカーブスは、今では私のライフワークに欠かせないものとなっています。また、コーチの優しさが心を豊かにしてくれます。これからも、今以上に週3回のトレーニングとタンパク質を中心にした食事を摂っていきたいと思います。そして、毎日の成果を、笑顔が素敵な、藤岡中央のコーチたちにお話ししていきたいと思います。