晩秋の11月に、カーブスがここ熊谷に開店したのを知ったのは18年も前であった。遥かな月日である。女性だけのジム、30分で工程が終る、本当?まさかの半信半疑であった。
 体力には自信があったし、スポーツは大好きで学生時代もよく走っていた。炎天下で走っても、今のように水分補給だ、塩分摂取だの休息だのと、トンと気にすることもなかったし、母の口癖で、丈夫に生んでくれてありがたいと疲れを知らない体であった。

 幼馴染と結婚し3人の子供に恵まれたが、ある朝、元気で出かけた夫は、その午後3時に二度と笑う顔も声も聞くことの出来ぬ人となった。49才の誕生日を過ぎたばかりの早過ぎる死であった。急性心不全ということで、その1ヶ月前に受けた健康診断の結果は異状無しだったのに......青天の霹靂であった。
 4月3日、月遅れの桃の節句、18才の末の娘が大学の入学式に元気で出かけ、ただいま!の言葉も言い終らぬうちに、家の中の異常にもの凄い声でイヤダッと叫んだ。イヤダ、イヤダと父親を布団の上からゆすった。
 それから1週間、物も食べられず語ることもなく、涙ばかりを流していた。気づかって通って来てくれる方達も少なくなって、息子達も仕事に、娘も学校へ通うようになった。
 残されたのはこの私、いろいろなこれからの人生の思いもあった。息子達は、オロオロする私を見て、しょうがない親父だなあ、このオバさん残して行ってしまうんだものなんて冗談に言ったが、案外本音だったかもしれない。
 それから数年、私は生活の為元気で働いた。ありがたいことに体はまったく元気であった。生き甲斐の為に習い始めた大正琴も師範を取得、その上の講師、師匠の勧めで準教授の資格を手にしていた。
 
 65才の時に、夫亡き後、1番の相談相手であった実母を亡くした。主人との別れもそうであったが、ガクンと力が抜けて、悲しみは主人との別れとは全く違うものであった。言葉にはいい尽しがたい、涙があとからあとから流れて、これが血の繋がりなんだと思った。朝顔の花の好きだった、シューマイの上手な、ビシッときれいにアイロンをかけた、何を見ても母がかぶさって会いたい、会いたいと思い、強い口をきいたりしてごめんネなどとそんな毎日であった。

 躊躇していたがカーブスの一員となった。
 開店から10ヵ月後のことであった。その頃はサティショッピング店の3階、東方にあった。カーブの反対西方にはカルチャーセンターがあり、沢山の講座があった。どれも興味を引くもので、タップダンスやフラダンス等こころが動いたが、とにかく入会してみよう、きっと得るものがある。新しいものへの挑戦、本当にそう思って扉を開けた。

 在籍年数では17年を越えるのに、10年のプラチナカードを目前にして、一夜にして全財産を失くすという、目の前で2階建ての我が家が焼け崩れていく火災、原因分らずの出火で全てを失った。ただぎゅっと握りしめていたのは、5才の女孫が、小さなかわいいシールをベタベタ貼りつけた携帯電話だった。
 夢のような3、4時間。私は運ばれた病院のベットの上で目を開けた。友が駆け付けてくれた。私が唯一握っていたケータイから娘や近しい人に連絡が出来た。そして気を失った。気が遠くなる前に5才の孫がまだ家に残っているのを知り、火の中へ行こうとしたが消火の方や周りの人達に抱えられ、私はへなへなとそこへへたり込み気が遠くなったのだった。

 それから5ヵ月後カーブスへ復帰できた。懐かしいコーチが飛びつき迎えてくれた。Aコーチは涙いっぱいの目で「お帰りなさい」と言ってくれた。Sコーチはただただ肩を優しくなで、孫のような歳のMコーチも私の手を握ってよかったよかったと言ってくれた。その日は月初、計測日であった。体力チェックだった。私も受けた。片足立ち、起き上り、ぐーんと体の柔軟度の測定、終ってSコーチが大きな声で言った!バケモノだあって。
 いつもサッパリと、それでいてきちんと指導してくださり、真面目な良いコーチ、自分でも足の手術等苦労もあるだろうに、そのコーチからバケモノと言われた。私の体力年齢が20代前半だとの結果だそうで、その時の実年齢が77才だったので結果20代はバケモノということになったのだ。

 火事のあと、家族と離れ、1人で10階建団地の8階に住んだ。毎晩泣いていたが、あんなにせっせと通ったカーブスを思い出していた。腕も足もげっそりと筋肉がダブって、踏み込む足に力がない。全てを失った者の悲しさもなすすべの分らなくなった高齢の私が少し思った。誰もが自分だけの生きる道を、元気でいてくれることがみんなへのお返しだよという。10階建ての階段を夜静かになった頃毎日上り降りした。朝早くエレベーターの前でカーブスストレッチをした。部屋だと下の部屋の人に音が聞こえてしまう。そう思って夜中にせっせ、せっせと歩いた。ダブついていた筋肉も戻った感じがする。気持ちの良いストレッチ、火災事故から5ヵ月が過ぎていた。
 カーブスへ復帰すると一緒に、大正琴へも、スクエアダンスやラインダンスへも、コーラスグループへも戻った。へえーあんな事故があったのに元気ねえなどという人もあったが、唯一家族が私を勇気づけた。私には亡くなった孫の分まで生きていく責任があるという。
 そして自転車を漕いだ。歩いた。階段を上り降りした。ストレッチをした。ストレッチもすっかり頭に入っていた。そしてある日電話を入れた。「来月から戻りまーす」

 5人のコーチ達が、カーブスのA4レポート用紙にビッシリと書いてあるお手紙をくださった。メンバー1人1人に、きれいに綴られた手紙、みな私達を思い、気づかいサポートの手紙であった。一様に優しくカーブス理念に基づくものであったが、それぞれ個性のある暖かい文であった。絶対無理は禁物だが時として負荷をかけることも必要とMコーチ、笑いを持って帰ってネとSコーチ、肌がきれいになったしスッと背スジが伸びてる、立ってる姿勢がいい!お世辞でもうれしい。でも姿勢のことは他のクラブに参加した時にも言われた。口グセになっている腹圧を入れてのおかげである。知らぬうちにピッと気がついて背スジを確め腹圧を入れている。ありがたいものだ。
 それにカーブスマガジンのありがたさ、どんな哲学書を読むよりおもしろい。国内有数の大学の教授達の指導、サポート、多岐にわたっての極めの指導料理まで、こんなに親切丁寧な書物はない。
 残念なことに、焼失するまでの私が投稿したエッセイの控えがない。マシンのこと、成果のこと、コーチとのこと、継続は力なりのこと、楽しかったこと、入ってきた友、遠くに去った友、一緒に泣いてくれ共に笑いあった友、カーブスは楽しい大切な場です。

 今年、7回目の年女となる私の17年の軌跡です。