六十歳を越えてもまだ保育士として現役で子ども達と走りっこしていました。走るのは子ども達の方が速いでした。「まってー」と言いながら、負けじと走っていたことを思い出しています。子ども達からのエネルギーをもらうせいか、周りからも「若い!」と言われたりして、自分自身も「若い」と自負していました。
 そんな頃、街の中で名前を呼ばれたので「はい?」と言いながら振り返る時、一瞬、体がふらっとして、びっくりしました。首(頭)が斜め後ろ向きながら、ほんの少し右足を後にひくので、左足だけで立つことになった、即ち片足立ちにならざるを得ないことを知りました。歩く時は一足一足、片足立ちになるのですが、前に歩いているので、気が付かなかっただけのようです。
 そうした頃、「カーブス」の存在を知りました。「無料」の試しに一人で出掛けました。いきいきとした若いトレーナーさんに魅きつけられました。細かい説明に一つ一つ納得し機械(マシン)の扱いを指導受けました。
 年を重ねますと、『きょうよう』が大事なんよと、時々聞かされます。初め『教養』と思って聞いていますと、ちょっと違うなあと思ったことがあります。『今日、用事があって出掛ける所がある』を省略して『今日用』だと言うことを知りました。
『カーブス』に行くことが『今日用』になることに気が付きました。
「カーブス」に通い出して、間もなく私より四歳年輩の知り合いとバッタリ、出入り口の辺で、立ち話をしました。「お久しぶりです。」の私の話し掛けに「ホントね、旅行先で、お土産を買い込んで、いざバッグを持とうとしたら、持ち上がらないんよ。」とそれで、びっくりしていたら、「カーブス」をすすめられてと話してくれました。
 そして、マシンに乗っている時、ふと目が合う人があって、お互いに首をかしげながら十数分が過ぎました。マシンを降りて、ストレッチ体操をする所で、名前を呼び合いました。県外から戻られていて、十余年ぶり、一気に親しく、話を交わしていました。「『カーブス』のおかげね」と言いながら、不思議な出会いでした。
半年ほどした頃、そんな私が、通うのを迷うようになっていました。出掛けるのが、おっくうになって。何気なく、五十年来の福岡の友達と電話で長話をしていました時、友達もカーブスに通っていることがわかり、「私も」と私。友達は「三年め、続けなね」とまた話が続き、励まされました。
 通い始めて、体力測定二回目の時、「四十代」と数値が出てきて、成果がしっかり具体的に表わされ、びっくりしました。
 そんな時、息子のお嫁さんのご実家を訪れました。「おかあさん、(私のこと)私、こんななって、もう散歩にもよう行かんのよ、」と玄関に出て来られました。ついこの間まで、ご主人や犬とお散歩を楽しまれていましたので、短い期間で、こんなに急に体に衰えが来ることを目の前にしました。『えっ』と、私は、何も考えることなく、出て来られたままのちーおかあさんに靴をはくよう促し、手伝い、車に乗せていました。
 ビルの入り口近くに着き、「歩いてね。」と手をとり、体を支え、「カーブス」まで必死でした。「カーブス」の入り口で、寄って来て下さったトレーナーさんに、「よろしくお願いします。」と頭を下げる私が居ました。翌日から、ご主人が気持よく、送り迎えをして下さり、三ヵ月近くなります。カーブスに出会わなかったら、寝たきりの生活になるのは時間の問題だったと思っています。「カーブス」では、トレーナーさんが、居て下さるのにも私は、感心、感謝、感激しています。私も、一日おき、時間を合わせるようにして、一緒に頑張ろうと励まし合っています。