プラチナカードをコーチからいただいた時、改めて10年たったのだと感じた。10年たてば、生まれた子供が小学4年生になる。すごいねといわれたが、あっというまだったと感じると共に、楽しく続けさせてくれたコーチ達にも、カーブスにも感謝している。
 10年前、認知症の姑と同居し、仕事をしていた頃、体重はふえ、実家の母に「私の友達であなたみたいな体格の人は皆、杖をついているわよ。やせなさい。」といわれてもやせる方法などわからない。ダイエットもウォーキングもした。まして私の仕事はヘルパー。人一倍うごいているにも関らずやせない。
 私は体質と割り切り、動ける肥満体でいいやと居直った。別に困ったこともないし。
 筋トレを本で読み、DVDも買ったが、時間もとれないしと思っていた矢先に出会ったのがカーブス。30分ならば仕事の移動の合間にできると入会したのが10年前。
 実は私は大の体育ぎらい。スポーツジム程縁遠いものはなかった。カーブスに入会する前にもジムにはいったが、時間がかかり、お風呂も気持いいが、忙しい身には次第に足がとおのき続かなかった。
 カーブスは仕事の合間に運動でき、今迄私の人生になかった体を動かすことに予想していなかったメリットを感じた。
 介護のストレスの減少もその一つだ。肩こりや疲労にはもちろん、メンタルの面でも、心が酸素をすいこむように、切り替ることができた。姿勢がよくなり、久しぶりに会った友人に「精子さん、背脂とれたね。」といわれたのもこの頃、4kgやせてこのままだと、洋服きれなくなってしまうと心配すらした。
 残念ながら半年もたつと、体重はふえてきたが、背脂はとれたまま、メンバー達とも顔なじみになり、町や駅などでバッタリ会い笑顔であいさつすることもふえた。
出身もバラバラだけど、カーブスという場で出会ったメンバーは、不思議な連帯感があり、やめたり休んだりしていた人達が、久しぶりにもどってきたりすると、すごくうれしくなる。
 やがて八王子で独り暮しをしていた母が、入院した。90才まで友人と一緒に旅行をしていた母だが、肺に水がたまり、退院してから我家での同居がはじまった。
 圧迫骨折や大腿部骨折をし、入院や老健や次から次の展開に動きまわり、仕事をしカーブスに通い、ふり返っても盛り沢山な日々だったと思う。
 ただカーブスは週に1、2回でも通っていた。コーチの笑顔やメンバーとの出会い、体をうごかすことで私の心の切替もできた。
 母の施設入所が決まり、訪問するたびに、楽しそうな表情をみて心底ほっとして一年がたった。
 10年目のプラチナカードを頂いた後、計測でコーチが「エー!!」と声をあげた。「精子さん4キロおちています」私もびっくり。体重が減るなんて何年ぶりだろう。お正月だってしっかり食べていたのにと一寸にんまり。
 10年たって代謝のいい身体になったのかしらなどと思っていたのだが、のどが妙にかわき、2月に更に2キロ減った時、さすがに変だと思い病院にかけこんだ。
 私は大の病院ぎらい。以前検診の時に通って服薬していたが忙がしさに遠ざかっていた。「薬をちゃんとのんでいないから糖尿病がすすんだ」という医師に病気知らずだった私はびっくり。
 前後して母がターミナルを宣告されみとりケアがはじまった。
 娘よりも若いコーチは親身になって私の話をきいてくれた。幸い薬をしっかりのんだおかげで血糖値もおさまった。コーチはわがことのように喜んでくれた。
 経過は思ったより早かったといわれ、カーブスでの運動習慣や、少しづつふえた筋肉のおかげだと思った。
 母もまだ少量ながら食事がとれ、私達がいくと笑顔でむかえてくれる。
 私は合間をみてカーブスに通い、筋トレをして又、仕事にいく。身体を動かすこと、動かせることに幸せをしみじみ感じる。
 今回のことで、病知らずだった私もやはり年をとっていくのだと痛感した。10年前、一緒にはじめた友人達と、カーブスに出会っていなかったらどうなっていたかなと話すことがある。それぞれが、やっていてよかったと本心から答える。
 昔、母が身体を最後まで使い果していきたいと言っていたけれど、私もやはり身体とむきあい最後迄カーブスとつきあっていきたい。