私が通っているのはカーブス広島楽々園店です。広島電鉄宮島線の楽々園駅のそばのビルの一階に入っている店です。小さな事務所ぐらいの小さなカーブス店です。トレーナーはほとんどが平成生まれの20代の女性で、通って来られてるのは年配の女性ばかりみたいです。会員達は皆が体調に悩みをかかえているみたいです。ここではトレーナーが会員の下の名前で呼んで話しかけます。私は「和子さん」と呼ばれます。和子さんはいつも数人はいるみたいで、「あれ、私じゃなかった」と思うことは度々です。
 毎週月曜日と金曜日の午後3時に行くことにしています。この時間帯が家事をすませてからなので気楽に通っていられます。先日の3月18日月曜日、筋トレとストレッチがすんでプロテインを飲むコーナーで準備していると、トレーナーがそばに来て、「和子さんは1年通われたから認定証が出てますよ」とハガキより少し小さめの認定証をもらいました。1年続いたのかとうれしかったです。それからトレーナーから、アンケートをお願いしますと言われ、質問に私の気持ちを正直に話しました。
 母が認知症になって介護の勉強を始めて、ボランティアになって施設で務めてて、介護予防の教室をさがしたけど無くて、ぐうぜん新聞のオリコミのカーブスの広告をみつけたこと。入会のきっかけはこんなことで、これからの目標は、カーブスに通われている認知症の高齢者とおそろいの体操着にして一緒に筋トレすること、と。
 すると、トレーナーは「お話聞けて良かった」と喜んでくれて、私もこの目標で続けていけると本当にうれしかったです。
 帰ってから、トレーナーから認定証は飾っておいてと言われていたので認知証介助士の楯の裏につけました。介護の勉強で資格を取ってもらった楯です。これからの目標に向かって希望も新たにとつけました。

 でも、本当のところは去年の7月西日本豪雨災害から気持ちはどん底なのです。母が認知症になったのは2014年の安佐北の土砂災害からです。去年の西日本豪雨災害では安佐北は同じ所が災害となったそうです。母は安佐南区に住んでいて安佐北の隣です。去年は母の家も災害になると思いました。
 私が住んでいるのは宮島の対岸の廿日市市です、中国醸造(清酒一代を作った酒蔵)の街です。去年の7月、ここも4、5日間大雨がずっとふり続きました。テレビニュースですでに大きな水害となった街の様子を見て、ここも危いから避難だと心配していました。やっと雨がやんで西日本豪雨災害のニュースにびっくりしました。広島県はJRの山陽本線が不通、中国自動車道と山陽自動車道の高速道路が不通になりました。呉の西の坂町や海田が水没し、広島駅そばのマツダスタジアムでのカープの試合もしばらく中止になりました。私の住んでいる廿日市市は宮島周辺の養殖漁業社が多くつぶれてしまったそうです。
 私は母と母のそばに住んでいる妹夫婦家族のことが心配でした。電話をしようと思いましたが災害があまりにもひどいのでそんな余裕もありませんでした。近所のスーパーは商品がなくなっていました。
 数日たってやっと妹に電話した時、家が無いかなと心の内で心配していましたが、妹は「今回も大丈夫だったよ」とケロッとした様子だったので、安心したのと驚いたのと不思議な気持ちでした。
 カーブス広島楽々園店も数日ぶりに行ってみると普段通りやっていて、「ここも被害がなかったのか」と安心しました。
 西日本豪雨災害から8ヵ月が経過しましたが復旧した所はわずかのようです。広島は第二次世界大戦の末期、昭和20年8月6日、に原子爆弾によって破壊となった街だから復旧を望んでもしかたないことかもしれません。これから広島の政令指定都市の街創りが進むのでしょう。
 ですから今も去年の西日本豪雨災害の影響で命を失っている人がいるようです。廿日市市は「津和野街道の廿日市」だそうで、広島市とは違って100才以上の高齢者がずいぶんいます。宮島周辺の養殖漁業社が災害でつぶれたので100才以上の高齢者で亡くなった方々の心配になっているようです。
 こんな中、妹の主人が亡くなりました。2月15日金曜日です、カーブスからの帰り道で私の携帯電話が鳴りました。妹から電話で「主人がガンで入院した、危い」との知らせでした。その日の夕方、妹が「亡くなった」と知らせてきました。
 妹の主人は隠岐の島の境港ゆかりの人でした。境港も西日本豪雨災害となった所があって、このために病死したのでした。1月には隠岐の島のお兄さんが亡くなられていたので、兄弟があいついで亡くなってしまい本当にびっくりしました。
 通夜と葬式では妹が「忙しいから、お姉ちゃんがお母さん連れてきて」と言ったので、私が母を手伝いました。手伝いの時、私は何度も母に妹の主人が亡くなったと言いました。でも母は認知症のためにもの忘れして、何度も「誰が死んだの」と聞きます。それで私はそのたびに答えて、なかなか母の身仕度がすみません。まだ寒かったので黒のニットを重ね着にして冬物の黒のスカートを母に着てもらいました。喪服と言っても母も私もどうしていいかわからないから、それで行きました。
 通夜と葬式の間、母はそばにいる私に「誰が死んだの」とたずね続けました。私はそのたびに妹の主人の名を告げました。私は心の内でこんな自分にびっくりしていました、介護の勉強のおかげで寄り添えているわと。母が認知症になった頃は、もの忘れして何度もくり返して言う母にめまいがしてきて、「帰るね」と言っていた私でした。
 葬式が終わり帰り際、妹が「お母さんを連れてきてくれたから助かった」とわざわざ言ってくれました。やっと役立ったかと私は思いました。

 カーブスに入会した去年の3月頃、私は体の各所がぶよぶよで腰痛と股間節痛で歩くのもしんどい状態でした。トレーナーから聞いた話に、五十肩で病院でリハビリした事を思い出して、似てるなと思いました。認知症は少子高齢化社会の病気だそうです、介護家族もずいぶん体が老化するみたいです。私は自分の体の状態にとても困ったので半信半疑でしたがカーブスに通いました。
 しばらく通うと股間関節痛がなくなり歩けるようになっていました、日常生活もずいぶん楽になったのです。カーブスマガジンの認知症予防の指導も良かったと思います。体力がもどったから認知症の母に寄り添えたと思います。
 成果が出た事は継続が必要です。カーブスの認知症予防の指導に従って筋トレを続けること、妹や母が「助かるよ」と喜んでくれる介助ができるようになること、と考えています。