カーブス歴6年3カ月、今年の3月に1000回を数えました。黒地にゼロ3つが大、中、小のハート型でプリントしてあるTシャツを着ている人を憧れの眼差しで眺めていました!この間「年には勝てヘンワー!」なる両眼の白内障の手術、体調不調が何度もあったので感激しています(笑)これからも無理なく継続します!
 継続は力なり! Practice! Perfect!

 昨年に続き今年はマルタ島のステイからグローバルなカーブスの体験を記します。
マルタ共和国への語学ステイ
既に豪州1回、英国3回、米国2回と母国語が英語の代表的な国での語学ステイ体験6回していました。7回目にマルタ島を選んだ理由はヨーロッパに位置しているのに母国語が英語と言う事に大変、興味を持ったからです。
マルタ共和国
  マルタ共和国は日本からは遥か遠く日本からの直行便はありません。アリタリア航空のミラノ経由で1泊してから乗継いで遥々と到着します。シシリー島の下に位置する地中海に面した淡路島より小さい国です。到着後、日本の真夏の暑さと湿気が気にならない程、日差しが強く湿気も多くて南国風気候でした。住民の殆どの人達は小麦色に日焼けしていました。垣根のブーゲンビリア、ハイビスカス、黄色いサボテンの花が咲き乱れていて想像以上の暑さでした。チョッと歩くと古い建物の立ち並ぶ細い路地の道から吸い込まれそうな地中海特有のエメラルドグリーンの海が見えて、その路地から暫し微風を運んで来るので何とか過ごせました。暑い所なので遥か昔に町建設時、少しでも海からの涼風を取り入れる様に計画されたと聞きました。
  夏期は殆ど雨が降らないので町中の車は日本では見た事もない程に砂埃で灰色なのが普通です。洗車用水、庭の散水用水は個人宅に大きな貯水タンクを据え付けてあってタンクローリー車から水を買って備蓄しています(飲めない水も高価)。到着当時、良く見かける大きなタンクローリーは何かしらと?不思議に思っていました。水道水は飲めないので毎日ペットボトルの水を持参しました。
  日本の様に湯船にタップリ浸かっての入浴等は夢の又夢でしたホストハウスの風呂場前に「シャワーは1日1回、洗濯は週1回」と回数制限の紙が貼ってありました。日本で暮らしている時は水が充分あるのは当たり前的感覚でしたが、改めて水の大切さの実体験をしました。
英語の学校について
  学校へはバスで3駅乗ってしばらく歩きました。下車してからの細い道は急カーブで信号がないので朝の車のラッシュ時は、横断するタイミングが掴めなくて毎日トテモ緊張して通学していました。
  英語学校のクラスの生徒の国籍は8人中、日本人は一緒に来たMさんと私の2人だけでした。他はスイス、独、伊、スペインの欧州諸国から来ていました。驚いた事に旧共産圏の国、ポーランド、チェコ、ロシア等からも来ていた中年以上の社会人が多かったのは勇気付けられました。
  この頃、カーブスが世界展開し始めて欧州にも店が出来て広がりを見せていた時期です。今思えば欧州の諸国からの長期滞在のクラスメイトが「女性専用の筋トレ教室に休会届を出してきた」とか、「退会して来た」とか、「帰国したら入会する」とか話していました。各国の国訛りの発音でシッカリと聞き取れなかったのですが、今思えば「カーブス」の事だった!と認識しています。
  昔はドイツ人、スイス人等はプライドが高く自国語しか話さず、ホテル、お店でしか話さない時代が長く続きました。当時から欧州諸国では英語は仕事面で、コンピューター使用等で不可欠な時代になり国際化されているのを肌で感じながら学びました。ドイツの男性2人は刃物で世界的に有名な会社の係長さん達で、「自分達は今の地位より昇進するには英語力が不可欠」と話していました。ポーランドの女性は若い学校の数学の先生でママさんです。子供さんは3歳で御主人や家族で面倒を見ているとの事でした。3ヶ月の滞在、日本では考えられないと思いました。
  マルタ島は5島中で1番大きい島で、地理的に安全で警備がしやすいので、あの有名な米国と露国の平和会議マルタ会談が行われました。次にコゾ島、コミノ島で住民は少なく自然が溢れている海水浴場があります。他に無人島に近い2小島の5島でマルタ共和国です。
  その自然の環境の良さで「ジャン・バル・ジャン」等、数本の映画のロケ地に使われました。私はその「ジャン・バル・ジャン」の映画を見ましたが映画の背景の自然豊かな景色は今でも印象に残っています。マルタ島は地中海の中で便利で安全な位置の為に、長い間、何度も領土争いの戦争の歴史がありました。この小さな国は十字軍の活躍で勝利したと言う歴史があり、その貢献度が高いからかプロテスタントの教会が多くあるのには驚きました。当時の十字軍のパワーが偲ばれました。マルタ国旗の絵柄も戦いの勝利に由来しています。
マルタの言語
  マルタ島は約50年間、英国の植民地だったので公用語は英語です。マルタ政府の教育方針でマルタ人の全住民に母国語である「マルタ語」を小学校で(10歳迄に)習得させます。全住民が英語とマルタ語のバイリンガルです。マルタ語は仏語の様な、伊語の様な美しい発音です。伊語を話す人は殆どいないのは意外でした。
  ホストピアレンツはご夫妻共にマルタ人です。お2人はブルガリアに7年間の在住経験があってブルガリア語もペラペラのトライリンガルでした。特にママは英語を英国で学んで、豪州のメルボルンで長く英語を教えておられたそうです。彼女のキレイな発音で夫婦でのマルティリンガル振りの会話には聞き惚れていました。
ホストメイト(チェコの女性)
  ホストメイトの1人はチェコの50歳代のキャリアウーマンでした。背が高くて170cm以上はあったと思います。毎日の様に服装のお召し替えをして学校に行くお洒落な御婦人でした。彼女は話し好きでトテモ気さくで直ぐに意気投合しました。彼女は転職希望があり英語のレベルアップを計って再就職を有利にしたくてガンバッテいました。学校の事務的ミスで1人部屋のはずが彼女と相部屋でした。彼女がいい人だったので相部屋で最後まで過ごしました。共同生活をしたのも良い体験であったと思います。
韓国の若者
  もう1人のホストメイトは韓国の若者、大学最終学年で夏休みを利用して学んでいました。彼は日本に旅をした事があり若いだけに東京の「秋葉原」の事等、良く覚えていて驚きました。カメラ、携帯電話等、日本製を持っていました。韓国の実家では「洗濯機、テレビ、自動車等も日本製」と聞いた時、日本人として誇らしく嬉しく思いました。3人は直ぐに意気投合して夕食後には夫々の母国語訛り?の英語の発音で色々な話題の会話をしました。話に花が咲き過ぎてママに「早く宿題に取り掛かりなさい!」と促されました。
  彼は極楽トンボで朝早い帰国の日、最後の買い物に出掛けて中々、帰宅しません。帰宅直後に学校の迎えの車が来ました。彼は荷作りが未完成で運転手さんに待って貰いママと私で大きなビニールのゴミ袋に彼の持ち物を何でもかんでも区別なしに詰め込んで車のトランクに放り込みました。3人共汗だくで何とか間に合いました。最後に彼の背中をポンと叩いて「落ち着いて!気を確かに持って!All set!」と言って彼を車に押し込んで別れました。今でもあの光景を思い出すと思わず吹き出してしまいます。
マルタの食事について
  マルタの食事は伊料理と同じパスタ、ピザが主食です。野菜は水不足なので生野菜は安全の意味もあって余り食べません。主に温野菜を肉類の付け合せにして少し食べます。果物は種類も多く丁度、時期的に柿、無花果を売っていてドライフルーツも豊富でした(日本産の方が見掛けも綺麗で美味しい)。マルタ料理では兎肉を使います。初めて試食しましたが思っていたよりサッパリした味で美味しいですが、小動物で少し可哀相な気がしました。
世界遺産の島
  マルタ島は淡路島より小さい島ですが日本の石器時代より古い時代の石の寺や沢山の遺跡があり「小さな偉大な世界遺産の島」と言われる由縁です。欧州からの観光地、避寒地として観光客は国の収入源です。〈土、日の休みが無くてグロキーだよ!〉と言われました。学校のスタッフも同行、若くてイケメンで、レディーファーストで、シニアに親切でいつも満足!満足!でした。
  1980年、1992年にマルタ島の巨石神殿を1つのグループとしてユネスコの世界遺産に登録されました。
マルチーズ犬(平和な島へ神様からの贈物)
  マルチーズは小型犬で白いフワフワの毛並みで大きい黒い瞳のペットとして優れた外見的素質があります。その上、人間との相性が良い事が様々な小型愛玩犬の中でもマルチーズが抜きんでています。
  マルチーズはその名からも原種はマルタ原産の古代犬として知られています。マルタの古代の呼び名は「メリータ」と言います。ギリシャ、ローマの時代に描かれた壺等の絵柄にマルチーズらしい犬の姿があります。マルチーズは地中海海域の周辺の国に持ち出されその愛らしさから珍重されました。伝統的にマルチーズは船乗り犬、ペスト菌を持つネズミの駆除犬としても活躍しました。中世にはルネッサンスの画家達の作品の中にマルチーズが登場しています。遠く英国に紹介され貴族の主に婦人達に人気となったのは14世紀頃です。小さな島の人気者は瞬く間にヨーロッパに広がり、米国、カナダにも19世紀後半に紹介されました。これらの国々では第二次大戦後、爆発的な人気でした。日本では昭和40年代にマルチーズブームが到来して今日迄、人々に愛され続けています。
マルタ島の豆知識(正式国名 マルタ共和国)
 *面積  淡路島の約2分の1(316k平方メートル)
 *人口  37万6千人
 *首都  バレッタ(世界遺産の町)
 *言語  公用語は英語&マルタ語
 *宗教  カソリックが多数
 *通貨  2003年迄マルタリラ(小さな単位はミル硬貨)
      2004年にEU加入でユーロ貨幣、
 どんなに小国でも独立国が良いと言う雛形の様な国と言われています。マルタ島は長らく英国の植民地でした。(1814年~1964年)共和国になってまだ44年の国です。思った以上に綺麗な英語の発音でした。1つ懸念の点は欧州優位の観念がありアジア軽視の観念が残っている事でした。今や英語は世界共通語的感覚で、足場の便利さからマルタ島には欧州中から短期、長期の英語留学生が来ます。数ある英語学校では、欧州の金持ちの子弟だけしか入学を許可しない学校があって「アジア人、入学お断り」とパンフレットに明記されているのもありました。
 又、一方では大規模の英語学校で定期的に韓国、中国、タイ国等の大学とタイアップして夏季休暇だけ集中的にアジア人ばかりの学生団体を入学させる学校もありました。
  私が帰国した1年後にマルタ島はEU加盟国になりました。貨幣もマルタ島でしか両替出来なかったマルタリラからユーロ貨幣に切り替えられて便利になったと聞きました。そんな訳でキットアジア軽視の観念も段々と消えていくのではないかと思います。
  東京(新橋)にある「マルタ観光局」に行って色々と説明を受けました。マルタ共和国は伊国とアフリカ大陸に挟まれた「地中海のヘソ」とも呼ばれています。先史時代に築かれた謎の多い巨石神殿が幾つも点在しています。小国の長い歴史から「地中海のゆりかご」とも称されています。当時はいざ旅の準備を始めて見ると「マルタリラは現地でしか両替できない!飛行機の乗り換えは延着する事が多い」等の不安材料満載でした。一緒に出掛ける予定だった2人の友人のキャンセルが出たりして決心がぐらつきました。結局、勇気を出して4人で出発しました。今では未知の国のステイの体験が出来て良かったと懐かしく思い出しています。
カルカーラ(外国人海軍基地)
  カルカーラは町を抜けた背後の丘の上に所在します。日本語の案内が出ています。当時、日本は英国と同盟関係にあり、1917年(大正6年)英国海軍を支援した日本の艦船の兵士達「71名の戦死者墓地に慰霊碑が建てられています。(英国軍基地)現在でも海上自衛隊の有志が手入れしています。又、時には子孫の遺族団も訪れています。
  当時の日本海軍は「地中海の守り神」と言はれる程、強い海軍でした。1918年(大正7年)の休戦迄の1年半の間に、日本艦隊は実に348回出動し、連合国船舶788艘を護衛し75万人を護送。出動率72%で、仏伊、45%、英、60%を遥かに超える快挙。1917年、クレタ島付近で作戦中の「榊」は潜水艦の攻撃を受け大破しました。
  1921年(大正10年)、当時皇太子だった昭和天皇が参拝に訪れられました。私はこんな美談は知りませんでした。(若いから?)折角、マルタに滞在するので、又とない機会なので参拝に行こうと日本を出発する前から心に決めていました。放課後から出掛けたのですが、バスの回数が少なくて墓地までは結構、遠く感じました。入り口が閉まる少し前にヤット辿り着きました。受付にも墓地にも誰もいなくて閑散としていました。墓地は見事に整備されていて、清掃も行き届いていました。軍関係、政府、遺族の何世かの方々、ボランティアの方々で守られているそうです。思わず跪いて心から祈りを捧げました。日本海軍の功績が大であったからか、日本海軍の墓地は正面の1番広い1等地に記念碑は建てられていて感動しました。何だか涙ぐんで愛国心の様な気持が込み上げて来ました。綺麗に剪定された木々、咲き乱れている草花を日が暮れるのも忘れて、辺りを見渡して戦死者を偲びました。最終のバスに間に合って帰宅しました。墓石の前に日本のミカンが供えてありました!
  帰国する週に、クラスメイトを誘ったのですが、遠いし、年代的にも誰も興味を示されず、勇気を出して一人で出掛けましたが、バス停で他校若い女生徒に出会って一緒に行きました。お互いに墓地で写真を撮り合って記念写真が出来ました。本当に頑張って参拝出来て良かったと思っています!
  今回のステイは今迄の6回の短期英語ステイの中で1番印象深い「小さな国の偉大な世界遺産の楽園」の体験でした!

  日本海軍の墓地の霊よ安らかに! マルタ島に幸あれ!