スリムであることは老いも若きも、いつの世も女性の切なる願望と憧れです! 巷で言う「痩せの大食い!」なる方々が羨ましい限りです! 書店に行けば書棚には沢山のダイエット本が溢れ、各社TVチャンネルは選ぶのを迷う程、多数のダイエット番組が放映されています。
  さて、私の戦中、戦後の食糧難の困難であった時代の諸事は戦後生まれの方々に是非、読んで頂きたいと思いますし減量の基本が見えて来るとも思います。併せて私と長き宝塚受験生との減量物語を記しました。カーブス会員の方々の年齢層を問わず子供さん達お孫さん達にも何らかの形で参考になると思います。
  私の少女時代は昭和17年頃は第二次世界大戦中、終戦は昭和20年8月15日で小学4年生でした。戦時中は現代では想像も付かない食糧難でした。米不足でダイズ御飯は大豆に米粒が付いている代物、それでも米粒なるものを食べられるのは恵まれている方でした。終戦間近には銃後の家庭(戸主が出征している家庭)では戸主の戦死者が増加の一途を辿りました。食糧難は深まり弁当に炒った大豆をアルミの弁当箱に入れて持参する生徒もいました。教室の昼食時間、コロコロと転がる大豆をカリカリと噛む音は子供心に辛い思いがありました。その代わり当時は肥満児、肥満体の男女は皆無に近く成人病も非常に少ないでした。一方では日々の食べ物の摂取量が減って栄養不良に陥り肺門リンパ腺(子供の結核)になる生徒が増えて学校を1年間、2年間と休学する生徒が出ました。薬も何もない欠乏時代で平均寿命も低いでした。砂糖を手に入れるなど夢のまた夢だった半面、虫歯児童は稀でした。戦局は激しくなり米と安全を求めて同期生が田舎にある親の郷里、親戚を頼っての疎開を始め一人減り二人減り心細いでした。終戦直後は更に全ての物資が不足、特に主食の穀類はヤミ物資調達をしないと生死に関わる程でした。昨今ではスーパーマーケットには選ぶのに困るほど多種類の食料品が満ち溢れている環境に育った若者達には想像だに出来ない窮乏時代でした。お洒落なども程遠い衣料も不足、お茶っ葉まで食べられる野草を干して炒って飲んでいました。さつま芋の蔓も貴重な野菜源、これは美味しいでした。敗戦の色が濃くなるとトウモロコシ粉まで配給になりました。パサパサで消化の悪いパンを家が煤だらけになるまで薪で蒸して飢えを凌ぎました。遂にドングリの粉まで配給になりましたが苦みが有って食べられる代物ではなかったです。終戦直後「どんぐりの粉は微量の毒性があるから食さないように」なる記事が新聞に載りました。戦時中、敗戦後の母親達の嫁入り時の着物は米に化ける限界の中、家族の胃袋を満たしました。私の家は父親の故郷の鹿児島、田舎の親戚から米、芋類を「書籍」と記して鉄道チッキで送って貰って助かっていました。次第に中身の検閲も厳しくなり軍に没収される様になりました。当時の母親達の苦労は想像を超える必死の有り難いものでした。昔は早婚だったので、家族構成は四所帯、三所帯が当たり前で曾祖父、祖父母、両親、子供の数は四、五~八人位で十人以上の家族はざらでしたので余計に食糧調達は大変でした。

  戦時中、母は宝塚歌劇団、音楽学校で声楽教師を勤めていました。母も歌劇団の担任の生徒達を連れて、お国の為に伊丹空港で飛行機のベアリング研ぎをグレーの繋ぎのモンペを着て勤労奉仕をしました。当時の宝ジェンヌは八千草薫さん、明石照子さん、淀かおるさんが未だティーンエイジャーの頃でした。劇場は閉鎖され戦後は進駐軍に接収されていました。やがて一般公演が開かれ、宝塚ブームとなって行きます。
東京...大阪の爆撃、広島、長崎に原爆投下、多くの県も焼け野原となりました。折角、無事に復員して来た兵士さん達は家族との感激の対面、新しく誕生した幼子との和やかな家庭の時間を短くして戦地での栄養失調、南方でマラリア等の流行病でバタバタと母国、日本で亡くなられると言う悲劇も多数ありました。
敗戦後の日本は大正生まれ、昭和の初期生まれの数少ない働き蜂時代の方々のお蔭で日本は目覚ましい復興、発展を遂げて行きました。よき例として、その頑張りのお陰でアジア地域では日本国だけが戦後いち早く殆どの国の海外出国ビザ不必要となりました。戦後10年の昭和30年代~40年代頃には日本も豊かになり宝ジェンヌに憧れて北は北海道、南は鹿児島からの受験生が増えて競争率は年々、高くなりました。
  母の教え子で宝塚歌劇団の出身者が九州地方でクラシックバレー教室を開いておられて毎年、宝塚受験生の為の声楽レッスンの依頼がありました。夏休み、春休みには大阪の親戚やホテルに宿泊して集中特訓を受けに来ていました。母である大先生?(ふっくら型)に余り怒られない様に? 私は小先生として下見レッスンをしていました。若き受験生、舞台に立ってから「絶世の美女の娘役!」と謳われた有馬稲子さん、扇千景さんに会った時は将に天女か! かぐや姫か! と思う程の美しさでした。
中学3年の鳳蘭さんは小麦色の肌で鉛筆の様にスラーッと背が高く! 大きな目に吸い込まれそうで! 大らかで! 大スターになる片鱗がありました。その後、当時のタカラジェンヌとして初めて170cm代の大型男役スター誕生となりました。時代がすすむにつれ肉類、乳製品を沢山、食する時代に入り、更に学校給食の質の向上で「日本人は胴長短足!」と世界から言われていましたが、今では手足の長い8頭身のスタイル満点の若者達が増えて来たのは日本の豊かさの象徴であり喜ばしい事です。世界の美人コンテストでも日本代表者は、ほぼ完璧に近いスタイルで上位に食い込む様になりました。宝塚の男役も天海祐希さん時代から175cm級の背の高い男役さんが育っています。長所と短所は背中合わせとやら日本人のお家芸スポーツ、相撲、柔道、三段跳び、芸事では日本舞踊等は胴長短足の方が一つ一つのポーズが決まる! とか胃腸、内臓の安置度が良くて健康的等とも言われています。
  宝塚受験チャンスは中学卒業(15歳)から高校卒業する迄(18歳)の4回です。食べ盛り育ち盛りで油断すると太りやすい時期です。日本の繁栄と共に多種の菓子類が販売される様になり「止まらない!止められない!」の宣伝文句のジャンクフード「かっぱえびせん」は一袋ペロリと平らげる等、大阪滞在中に太った! なる事態は避けなければなりません。そんな訳で私が栄養バランス管理係もしました。
当時、色々なダイエット方法が流行りました。食事では極力澱粉を控える、蒟蒻、林檎、高価なメロン(作家さんなど)、グレープフルーツ、茹で卵等を主食的に食べるのが主流で少量の肉、乳製品で蛋白質を補うと言うものでした。しかし、澱粉をゼロにしたり、カロリー不足など極端過ぎる方法で体調を壊す例もあり命を縮める位の問題も多数、発生しました。
  当時、ドイツ兵が訓練の時に肥満では困ると云う理由でドイツ政府も公認の「ボノラート」というサプリメント・スープが流行りました。それは「3、4日間、1日、3~5回、このスープだけをメインに食すると3kg減量できる!」が箱書説明でした。短期減量には確かに効果的でしたがスープ状の物ばかりを食すると空腹が少しは満ちますが飽きて仕舞います。自分の歯で噛んでの歯応え、食感、香りを感じてこそ食べ物の美味しさを感じるんヤナー! なる体験を生まれて初めてしました。地方から来ている生徒達、自宅からの生徒達は試験日が近付くと空腹気味の体でエネルギーを振り絞って一日でクラシックバレー、モダンダンス、課題曲の声楽と、ダブルヘッダー、スリーヘッダーで、レッスンに明け暮れます。クラシックバレーの試験はレオタード着用なので良いスタイルで! をモットーにエネルギー切れで腕が上がらなくなる迄、頑張りました。受験の理想体重は身長から120cmを引いた厳しい指数ですが「これではブッ倒れる!」の心配から鶏のささ身、野菜等を加えました。こんな涙ぐましい努力と根性で受験生の数人が難関の受験を無事に突破! タカラジェンヌになりました。ある年は20人~25人に1人の競争率の中、3人もの合格者が出て喜びを噛み締め合いました!ところが合格から入学式迄の僅か3週間以内に安心感、郷里での歓迎会などでリバウンドする生徒さんがいまして(笑)・・・ダイエットの難しさをヒシヒシと体験しました!
  宝塚音楽学校に入学すると2年間の芸の訓練がスタート、下級生は早朝からの掃除当番、礼儀作法、数多くのレッスンに励みます。夏場は踊り用のレオタードは絞る位の大汗を掻くので数枚持参して登校します。宝塚地域の水は炭酸の含有量が多くて肌に良く(近くに有馬温泉あり)、生徒達は鍛えた体と新陳代謝の良さで抜ける様な色白肌と繰返しの芸の訓練と強靭な精神を育てて目の輝きを得て芸名を付け初舞台に立ちます。劇団に入ると厳しい長幼の序の中での適度の緊張感、数年間の毎年の実技テスト、筋トレ等で太りにくい体質となって行きます。どんなに食事だけ制限しても適度の筋トレ、兎に角、体を動かし歩行も含めて組み合わせると効果が大である証明を長年、目の当たりにしました。
  時は流れ私は16年前、大阪から千葉の習志野市に引っ越し、終の住み家となりました。年々シニアを重ねる内に体重は増える一方、運動不足で足腰が痛む様になりました。東北大震災の8ヶ月後、私は意を決して増えに増えた重い体でビッコを引き引き杖と共にカーブスに入会しました。最初は足を使うマシーンは殆ど使えないでしたが回を重ねて行く内に全マシーンが使える様になりました! その内に杖をアチコチに忘れる位に両膝に筋肉が付いて遂に杖無しでカーブスに通える様になりました! 入会当初、緑色に700回とプリントされたTシャツで運動されている先輩会員を見て「果たして、あの回数まで通えるかな?」と不安と憧れの眼差しで眺めていました。入会して4年3ヶ月、300回、500回と回数を重ねてTシャツを感激しながら頂きました。もう直ぐ700回となり憧れの緑色Tシャツのゲットも間近です。
この4年余りの年月は「山あり!谷あり!」でした。ある日、医師から思い掛けない難しい病名を告げられて頭のMRIを定期的に撮る経過観察を受ける様になりました。半年前は両眼の白内障手術を片方ずつ受けて余儀なく暫く休みました。又、急に神経痛が起きて股関節、坐骨、肋間神経痛と痛みが移動したりして「カーブスはこれ迄よ!」の事態も何度もありました。シニアを重ねて乗り越えるには気力、体力、前向き志向が必可決と悟りながらも「アアー!シンド!もうエエワー!この歳になれば何が起こっても不思議はアレヘンワ!」なる自暴自棄な思いの時期もありました。それでも何とか気持ちを奮い立たせて起死回生「継続は力なり!」を信じて続けている現在です。先輩会員の中には、ほぼ毎日、出勤運動(笑)されている方がおられるのは尊敬の極みです。既に1100回を越えておられます。「100回毎のTシャツは果たして次は何色なのかしら?」と次回のTシャツの色を見るのが楽しみです!
  カーブス津田沼店の5周年のオープン記念日は東北大震災と同じ年の3月15日は決して忘れる事のない劇的な日です。先日、細やかな持ち寄りパーティーに参加しました。津田沼店のインストラクターさん、会員さん達とゲームをしたりして楽しく交友を深めました。新会員さんも増えて私は中堅会員となりました。気が付けば、体調は良い事ばかりの改善を得ています。

① 約10kgの減量、太りにくい体質に!(2kg位の増減あり)
② 減量で血圧が平常値に近付く(冬場は要注意、外出は控え目)
③ 足腰痛が殆ど改善(状態にはムラありですが症状との折り合いの付け方に試行錯誤中!)
④ 7000歩~8000歩位の歩行可能(最初は2000歩が精一杯)
⑤ 腕のタルタル改善=夫が「コウモリ羽根状の腕が鶏羽根状になったな」と宣う!
⑥ バタン・キューの熟睡が6.7時間継続!
⑦ トイレの回数が減る(安心下着のプレゼントは目下、不必要!)
⑧ 胃の調子が良好(胃袋が小さくなった!)
⑨ 便秘解消でスッキリ!
⑩ 薄着になった!
⑪ 風邪を引きにくくなった!
⑫ 新陳代謝が良好(汗かきでなかったが、水分補給の習慣で汗ばむ体質に!)
⑬ 手足の冷えが改良!

 以上、多くの項目の体調良好になりつつあるのは奇跡的です! 今、思う事は「カーブスとの赤い糸が繋がらなかったら今ごろは体重増加は止まらず益々、体調不良が進んで車椅子生活になっていたであろう?」です。
 先日、カーブスの踏み板で絶対に出来なかった駆け足動作が少し出来る様になってビックリポンの中、無事に傘寿を迎えました。減量にはサプリメント等のお金を掛けない! をモットーに、カーブスには戦時中の名残を採り入れて玄米に雑穀、豆類入りの御飯の小型弁当を持参しています。翌日に空弁当箱をリュックに入れたまま(笑)とか、上履きの片方だけを持参したりしながら(笑)、小康の続く限り細く長くカーブスに通う希望的目標に向かっています。
 以上、戦中戦後の食糧諸事情は現代人の成人病、肥満時、飲食店の賞味期限での大量破棄問題、拒食症、過食症、また一方では宝塚生の規則正しい節制と訓練生活の中に多分野の基本的な参考、発想の転換、改善策があるのではないか? と思います。
 昨年のエッセイ投稿で佳作を頂き小、中、高校の男性同期生に「男性会員はアカンの?カツラを被って入会デケヘンノ?加藤さんの元気になった姿はカーブスのエエ宣伝ヤネ!」等とからかい半分、本気半分の言葉を掛けられました。何が何でも自分の健康維持、回復に無くてはならないカーブスなので本年は違う観点からエッセイを書いた次第です。
 津田沼会員の皆様!
「歩き方が随分、良くなったね!無理しないでフレー!フレー!」と励まして頂いてホンマにオオキニ! これからも宜しゅうお願いします。共に頑張りましょうね!
インストラクターの方々!
「歳には勝てヘンナー!」なる思いが度々あります。運動後にお茶、タオル、靴等の忘れ物の常習犯で恥ずかしい次第ですが(笑)...懲りる事なく気長に今後共、宜しゅうお頼み申します!

Practice makes perfect=継続は力なり!
頭文字のP.M.Pで頑張ります
カーブスよ!永遠なれ!