私がカーブスに出会ったのは、平成21年の7月に職場の友人に勧められて勝田店にお試しに行った時でした。 私は平成12年に3人の子どもを抱え離婚し、実家のある水戸に住んでいたので、 結局、職場のある勝田店ではなく水戸姫子店に入会しました。 子どもを育てるために40歳から約3年介護現場の仕事をし、その後、相談業務につきましたが、 ストレスから子宮筋腫になり平成16年には子宮を全摘しました。その経験からもう無理はしない、 自分の身体は自分で守らなければならないと気持ちの上では変化が起き、食べ物にも注意していましたが、 運動をすることは自分の頭の中には全然浮かんではいませんでした。 元々、運動オンチの私には想像外だったのです。でも、その時すでにカーブスに通っていた友人には、 体がしまり、良い変化が起きていましたので、私もお試しをして、少しやってみてもいいかな・・と思い姫子店に通うことにしました。 カーブスで運動をするうち、もともとあった肩こりや介護の仕事で痛めた腰が少しずつ楽になり、 運動をするとスッキリするということがわかりました。それから、私のカーブス習慣は始まりました。

 カーブスに通い始めて2年目に入ったばかりの平成22年8月、長女が職場で倒れたと連絡が入りました。 取るものの取りあえず、私は東京に行きましたが医者から言われたのは脳腫瘍の疑いがあるという残酷な言葉でした。 救急病院から都内の大学病院に転院して、検査、そしてオペで腫瘍を取り、病理検査することになり、 私は東京の娘のアパートから毎日病室に1時間かけて通いました。暑さと慣れない場所での生活、 何より想像もしなかった娘の病気に不安で食欲もなく、眠れない日が続きました。 でも、それまで1年余りカーブスで運動していたので体がなまってしまう・・という感覚が私の中にはあったので、 水を入れたペットボトルを持ち娘のアパートで手を回したりして、自分なりに体を動かしスッキリさせていました。 娘は7時間近くに及ぶオペで腫瘍を摘出しましたが病理検査の結果、悪性の中の悪性の腫瘍であり、 5年生存率は10%と言われました。目の前は真っ暗になり、どうして娘がこんな目にあわなければならないのか・・・ 娘が何をしたのか?と涙があふれ出ました。

 その後、娘は東京を引き払い茨城に戻って治療をすることになりました。 まず放射線治療を6週間行うため、つくばの病院に入院し私も仕事に戻り、帰りはカーブスで運動することで、発散しました。 週末休みには差し入れをもって病院に通い、10月末に娘は退院し、 抗がん剤治療を2週間に一度通院で受けることになりました。娘の前では涙は見せられませんが、娘を乗せて高速道路を走りながら、 このまま一緒に死んでしまった方が楽なのかな・・と何度も頭をよぎりました。

 娘はしばらく自宅で生活をしていましたが、平成23年になり痙攣発作が度々襲い、 再発との宣告を受け、6月に2回目のオペをしました。私は仕事を休み、 手術に合わせて病院の近くにウィークリーマンションを借り、約半月の間、毎日病院に通いました。 荷物にはダンベルを入れ、カーブスに行けない間も体を動かすことを心掛けました。そして、リハビリを開始するにあたり、 私は水戸に戻り、その足でカーブスに行きました。その後、リハビリと抗がん剤治療を続けるため、娘は牛久の病院に転院し、 週中は息子と交代で、週末には必ず差し入れを持って見舞いに行く日々が続きました。リハビリを続けた結果、 左手は元に戻ることはありませんでしたが、左足は義肢で杖を使い、何とか歩けるようになりました。 と言っても当時住んでいたアパートはエレベーターもない4階だったので、慌ただしく平屋の家を見つけ引っ越しを済ませ、 9月の末に娘を迎えに行きました。

 やっと、次女と3人の暮らしを取り戻せたと思っていた矢先、11月末に抗がん剤の前にインターフェロンを接種した時、 酷い頭痛を訴えた娘は主治医を移した近くの病院に入院することになり、再々発と宣告されました。 3度目のオペをつくばの病院で受けないかと勧められましたが、病院での自由を奪われる生活に嫌気がさしていた娘は、 自由がないのは生きている意味がない、自由がないならオペは受けないと断りました。 その時から、私は娘を家で看取り、残された時間をできるだけ彼女の好きなように 過ごさせてあげようと決心し休暇をとることにしました。もう私の心には余裕がなく、 カーブスのコーチ宛に、しばらく休むとメールしたのもこの頃です。医師には、年を越すのも危ぶまれましたが、 娘は12月26日に自宅で27歳の誕生日を迎えました。しかし、年が明けると娘は少しずつ衰弱していき、自力で立てなくなり、 おむつになり、目が見えなくなりました。そして、記憶が交錯するようになり、 それまで動かせていた右手も震えるようになり食欲も低下してきました。 当時、公的なヘルパーをまだ使うことができず、自費で頼んでいましたが、 ある日、私の身体を心配した父が「ヘルパーのお金を出すから、頼むからカーブスに行ってくれ」と言いました。 両親達は年老いて、何もしてやることができないから、せめてお金を出すことで少しでも私が楽になり、発散できるようにとの配慮でした。

 同じころ、私にカーブスを勧めてくれた友人も休みの日に手伝いに来てくれ、 「娘を看るからカーブスに行っておいで」と背中を押してくれました。始めは、 娘が生きるか死ぬかの状態でいる時にそんな気持ちになれませんでしたが、 こんな時だから行くんだと説得され2月からカーブスを再開しました。行くとやはり、 体はスッキリとし気持ちを入れ替えて戻ることができました。記憶が朦朧としていた娘も 「お母さん、私大丈夫だから出かけていいよ」と私を送り出してくれました。その後も娘は衰弱し、 3月末に呑み込みが困難になり誤嚥性肺炎で入院。もう家に戻ることは出来ないのかとあきらめの境地になりましたが、 娘の帰りたいという気持ちが通じたのか奇跡的に肺炎は回復し、4月20日に退院しました。 私は、入院中も行けるときはカーブスに通い、自宅に戻ってからは在宅医療を受け介護を続けました。 しかし娘は平成24年5月14日天国に旅立って行きました。

 娘のお別れ会にはカーブスのコーチ達も参列してくれました。今年の命日で2年になりますが、 寂しい気持ちは亡くした直後より募っています。毎日毎日、会いたい・・何を見ても思い出して胸が苦しくなります。 でも、娘が母の日にカードに書いてくれた最後の言葉、「いつもありがとう。口には出さないけど感謝してますよ。 迷惑かけてばっかりだけど出来る限り力になるから頼ってくださいませ。ずっと元気でいてね。」8 May. 2011

 私はこの言葉を胸に、ずっと元気でいなくちゃ、天国の娘に心配はかけられないと思っています。だから今日も仕事の後、 カーブスに通います。カーブスに出会って5年余り、娘の闘病を経て、楽しい時、苦しい時、いつもカーブスは私の傍らにありました。 あったからこそ私は娘の闘病中も倒れることなく、自宅で娘を看取ってやれたと心から思い、本当に感謝しています。 また今も心と体のバランスを保てているのはカーブスのおかげです。

そしてこれからも、私はカーブスと共に年を取り、天国にいる娘に恥じることないよう元気に生きていこうと思っています。 ありがとうと一緒に・・